★ 「刃連の由来とは」
昔、欽明天皇の頃(539−571)日下部君の祖先にあたる邑阿自という人が都
で靭部(靭とは矢をいれて背中に背負う道具普通藤葛等でつくった筒状の物)として
仕えていて、後に日田郡のこの村に移り住んで居を構えたので、靭負村(ゆぎおひの
むら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。
この村には玖珠川があってこれは玖珠郡の東南の山から流れだし、石井まで流れて
いる.また阿蘇川(現大山川)が流れ込んで合流して一つの川となっている、日田川
(現三隈川)と謂うのはこの川の事である。
注:靭部とは部族で靭を作る靭編部、これを背負って戦う兵士を靭負部といった.従
って靭部とはこれらの部族集団と思われる。
★ 「田島の由来とは」
この地名の由来は、『豊西記』には、石井源太夫高明公、当部に下向き、来来里の着御
あり。これによって村名としその後大原に館し拡田を開きという記述と『豊後国志』
には鳥羽の宿禰が日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え
常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり。日田で初めて水田が開かれたことか
ら”田始播”=田島と呼ばれるようになったと記されている。石井源太夫高明公と鳥
羽の宿禰は同一人物の可能性がある
この後、鳥羽の宿禰は石井郷に移り今の石井神社に祀られている。
★ 「日下部氏とは」
刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部
(くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神
は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農
工業の祖神と崇敬されてきた。