土に蘇(か)える(四)

                      土に蘇(か)える        関 美代子

                                     (四)

「見まわりのあろう事は承知しとったが、さかのぼって二十ケ年分の書類を、
この百姓仕事の忙しい時期に差し出せとは厳しいことじゃ」岡田代官自らの馬原村
見まわりの知らせを受取って、六郎右衛門は蔵の中にいて書類を取り揃えながら、
かたわらの彦市につぶやいた。

「おやじ様、先祖代々何一つかくし立てのない事、代官様がいつお出になられても、
何も恐しい事はございま一せん」

「そんとおりじゃが…」六郎右衛門の眉が少しくもった。庄屋達の寄合の折、先に
代官の見まわりの終った刃連、村や上井手村の庄屋達から、「近々、また年貢米の
引き上げがあるらしい」「村内のすみずみまで見まわって、まだ倍の年責増収可能と
おおせられた。

百姓に首をくくれと申し渡されたも同然の事、たいした頭の切れるお方と聞いとった
が、どこをどう押してその数字がはじき出されたものやら、わしらにさえ見当も
つかん」「わしらは始め、二十年も昔の書類を差し出せと申された時、これはきっと
代官様が百姓の暮らしをよくよくお調べの上、年貢を減らして下さるためのもの
と思い、まっ正直な書類をつくれと組頭等に申し渡したものを、それが仇になって
帰ってくるという事じゃ」刃連村の庄屋をはじめ皆の苦しげな顔が浮かんだ。

皆が頭をかかえこんでいた時、ひとり下井手村の庄屋仙右衛門だけが、「女子も
黄金色も使いようで、どうにでもなるがな」と、にたりと笑っていた。代官が変わる
たびに、折にふれ足しげくみやげものを届ける仙右衛門を、「信用のおけぬお人じゃ」
と、他の庄屋達は、大事な話はできるだけ聞かせない事にしていた。

「おやじ様、田畑絵図も荒地絵図も私領境絵図も必要な書類はみなそろいました」
彦市の差し出すそれらの絵図を改めてくっていると「そろそろ代官様のお出になる
時刻ですよ」と、要助がよびに来た。

六郎右衛門は部屋に戻り、彦市の嫁が整えた衣服に身を正して代官を待った。
代官はおふれのあった五ツ半丁度、今は元締となった大塚伸右衛門、川島数右衛門
ほか手伝い、従者数名をつれて、毛並の良い馬に乗り六郎右衛門の屋敷に着いた。

用意の整った座敷に一同が揃い、ひととおりの挨拶が終ると、代官は彦市の嫁が
差し出した茶を一服して片手はすでに書類をひらいていた。

表情一つ変えず、一つ一つの書類の上をたんねんに注意深く目だけが送られて行く。
その横顔に六郎右衛門は、夜気に冷たく光る刀身のさえと、代官自身気付いていない
だろうわずかの疲れとかげりを、永い人生の辛惨をなめた目がとらえていた、長い
時間をかけてじっくりと書類を見ていた姿勢をおこして、左手を膝の上に置くと、
「見事なものじゃ」と言葉をかけた。

六郎右衛門が庄屋を務める馬原村は、この数年、打続く飢鐘や虫害に打撃を受けた
ものの、他の村に比べれば作物の出来高は日田郡随一であり、享保十九年の大飢饉
には進んで他郷の民衆に救いの手をさしのべた程であった。

差し出された馬原村明細帳には、米の収穫高、芋、粟、その他まだ耕されないやぶなど
細かな数字が正しく記されていたのだ。

俊惟にとって、江戸を遠く離れた西国の地にいて、歴代の代官よりより多くの年貢を
上納することが上様への唯一の忠義の道であり、岡田家末孫の安泰と深く信じていた。

おそらく正直に記帳されているに違いない帳簿から伺っても、どの村にくらべても
すべての作物の出来高は俊惟を満足させたのだった。

その数字は押せばまだまだ俊惟の力になるだろう広がりを見せていた。だがそれが
そう遠くない日に何倍もの数字になって、馬原村を押しつぶす事になろうとは思いも
かけず、六郎右衛門は、「有難う存じ上げます」と、うしろに身をかたくしている
彦市や惣次や村の主だった者達と共に深く頭をさげたのだった。

六郎右衛門が顔を上げると「役所に持ち帰り改めて目を通したき書類もある故、大塚
それらは別に致しておくがよい。これより村内を見地致す」と立ち上った。

「お昼もとおにまわっておりますれば、粗食ながらそれをおすましになられまして」
という六郎右衛門の言葉に、遅い昼食をすませて代官は再び馬上の人となり、
六郎右衛門や惣次の案内で村内の見まわりに出た。

代官は、これまで税がかけられていた田や畑等はほとんど素通りして、肥料用の
草刈場、まだ手がつけられてない荒山、茶畑、川端の田畑を時によっては馬から降りて
自ら足を運び見聞した。

これ等は、歴代の代官が大目に見て勿論年貢の対照にしなかった所である。

最後に荒山だったカネの大豆畑を見上げて、「例えわずかな田畑であれ、大事に
致さねばならぬ。大豆も豊作と見える」と六郎右衛門を見おろして言った。そばで、
役所から持参した書類を広げていた大塚仲右衛門が口元にかすかに卑屈な笑いを
浮かべて、「あの場所はこの書類には記されてございませぬ」と代官の顔を見上げた。

まさか、雑殻程度の、まだ猫のひたい程にしか開いていないカネの畑の大豆にまで、
代官の目が届こうなどとは思いもかけなかった六郎右衛門は、返事をしかねて、わらじ
のひもを結びなおす格好で片膝を地面についた。


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