日田義民伝概説シリーズ遺跡と遺物

90/09/08 19:48:22 NOSIDE 日田義民伝概説シリーズNO.11

**「日田義民伝概説シリーズNO.11

五,遺跡と遺物

1)竜川寺

財津町松雲山竜川寺は,財津氏累代の寺で,初め禅宗であったが,永禄元年和泉守永邦と 何左衛門尉永忠の再建以来,浄土宗に改めたと伝えられている.第13世水誉上人が一身 を賭して獄門棚の義民の首級を奪って帰り,手厚く葬った寺院であるから,種々の遺跡, 遺物がある.

寺の境内に入って門柱のすぐ左に, 墓は当寺内にあり 義民穴井六郎右衛門 記念碑は亀山公園にあり と彫った1メートル(台石とも2メートル)余の碑が建てられている.大正14年6月に 建てたものである.

山門に通じる石段の東側の石段を登った処に,義民堂がある. 竜川寺24世定誉和尚は,義民200年忌(昭和20年)に義民堂を建設する積もりであ ったが,昭和24年旧三花村有志竜川寺門徒総代等と謀り,日田玖珠の特志家の協力によ って,その4月に200年祭わかねて落成式をあげた.なお「義民堂」の扁額は,馬原供 養塔縁起を建設の際の,元郵政大臣広瀬正雄氏揮毫である.

額の板材は江藤近氏の寄付. 本堂に向かって左に財津氏や,歴代和尚の古い墓が並んでいるが,その上がり口に供養塔 縁起がある.

 松雲山竜川寺馬原供養塔縁起

幕藩体制下の日田は九州天領の枢軸として歴代の代官能く民治に励みしが,岡田正太夫の 苛斂(かれん)誅求の為餓死に瀕して流浪逃散する者続くに至れり 馬原庄屋穴井六郎右 衛門大いに概き日田玖珠の庄屋に詢り減税と夫食の哀願屡(る{しばしば})なるも聴容 せず 卒に13ケ村の訴状を携へ71才の老躯を以て次男要助,草三郎組頭惣次と延享3 年−1746−江戸直訴に及びしも 12月28日強訴徒党の罪にて浄明寺川原に獄門に 処せらる.

玄に助命を画策中なりし竜川寺第13代水誉上人は 処刑の報を聞くや夜闇に乗じて刑場 獄門台の首級を奪取して境内に密葬したり 程無く御仕置きの解除と祭礼執行の特赦行は れ小野筋隣村中施主として

 猛誉勇阿浄誉居士 穴井用助清原祐廉

 勇誉智阿宗栄居士 穴井六郎左衛門清原祐長

 礼誉義阿浄恵居士 飯田惣次郎

と雕刻(ちょうこく)したる供養塔を建立し法要を行うに至りたれども 名前の一字は公 儀を憚(はばかり)りて改めたり 爾来義民偉徳の顕彰と遺跡巡拝は累年多きを加へ 200年忌に当たり第24代定誉上人 は義民堂の建立を志し昭和24年落成するを得たれども 義民墓縁起を識る者甚だ少きの 憾あれば当代海誉上人有志一族相議して広く後世に伝えんがため之を録す.

 昭和51年3月            高倉芳男撰 大石登書

 石段を登った処に馬原供養塔があり,八角の台座の正面に六郎右衛門,右に要助左に惣 次の法名が,更に左の面に一字宛違えた三義民の名が彫られている.

裏面は塔身に 延享三丙寅    馬原供養塔    12月29日   とあり,その下に 願主 法誉普門 穴井潤左衛門   施主  小野筋隣村中  としてある.

その墓標の自然石は,この馬原供養塔の土台石の中に入れたと云われている.

墓は供養塔のやや左後方にあり

 当山13世  徳蓮社水誉上人竜作和尚  時明和五戊子6月24日

の字が210余年の風化の中に 残っている. 日田義民伝概説の表紙に戻る。

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