90/09/11 22:17:02 NOSIDE 日田義民伝概説シリーズNO.13 ** 日田義民伝概説シリーズNO.13 四)草三郎.土草.その他 江戸表上訴を決意した六郎右衛門が二回の会合を開いたというお茶屋場は,草三郎部落の 裏の山腹の,玖珠郡荻ケ原村から日田郡に通ずる道筋であるが,山林続きではあり,密談 には恰好の場所である. 草三郎の飯田多久美氏は義民惣次の子孫であり,大正初年に神社 の祭礼等で興行されたノゾキ(覘機関(てんきかん)−のぞきからくり)の看板絵二枚が 保存せられている.なほノゾキ絵の巻物は,火災で焼失したそうである. 飯田氏の前の墓地(山腹,旧金ケ塔道)に義民惣次の墓がある. 正面に 義阿浄恵 左面に 延享三年 右面に 12月29日 北面に 飯田惣次郎 と太い字で刻つてあるが,風化がひどく漸く(よた.明治25年本堂を新築して穴井山蓮 台寺と公称していたが,後に穴井山仏生寺と改めた.穴井山の山号迫獅フ前,土草に通ずる道の 側に,飯田惣次之碑がある. 「義侠不朽飯田惣次郎之碑」の題字で,裏面に約400字の碑文が記されている.題字,撰文,書ともに大正8年4月に当時の高尾小学校長であった佐藤寛吾氏のものであり,義民関係の碑文では最も古い.武石繁次氏も大正11年にこの碑文から,強い感激をうけて義民研究に着手したと述べている. 草三郎の南東の土草部落あみだ様の下には,直訴状を浄書したと伝えらるる与三左衛門の 墓がある. 宝暦10年 釈 玄古 辰7月14日 とあり,側面に「与三左門」と刻つてある.また同部落の阿部一夫氏は,穴井六郎右衛門 ノゾキの下絵を所蔵している.第一 穴井六郎右衛門村廻りの場,第二 談義会の場, 第三 悪人(代官白州(しらす)?)の場等から,仇討ちの場まで15場面が描かれてい る. 仏生寺−>矢瀬部落の西に穴井山仏生寺がある.昔から馬原村には寺院がなかったので ,明治8年旧馬原庄屋穴井祐一氏等は,三花村竜川寺の20世住職田辺達誉氏と議して, 義民供養の趣旨から寺院の建立を思い立った.明治25年本堂を新築して穴井山蓮台寺と 公称していたが,後に穴井山仏生寺と改めた.穴井山の山号は義民の苗字よりとり,寺の 寺号は大分市浄安寺 の末寺仏生寺によっている. 袋−>六郎右衛門が平素最も厚く信仰していた袋部落の,錦袋山地蔵尊は,現在も同部 落の森厳な寺域に鎮座ましまして近隣の参詣者も多く,年々祭礼が執り行われている. また江戸表への出発に先だって,向島に所有する田地の内,7畝24歩を地蔵尊の御供田 に寄進したが,これは地蔵様田と云って,部落民が輪番で耕作し,その収穫を祭事の費に あてている. 向島−>合田上ノ釣の対岸で,御供田の碑が建てられていたが,大正10年の洪水で流 失し,現在は大正11年9月に再建した 錦袋山地蔵尊御供田再建碑 寄進者 馬原村庄屋穴委六郎右衛門 が建てられている. 北平−>高塚行下北平(高塚行北平バス停下車)に,田畑取り上げ所払いの御仕置きの ,馬原村百姓宇右衛門の家(現穴井知氏)がある.(小田多満太氏の説)とあるが,墓碑 は不明である.また過料銭60貫文の御仕置きの,馬原村百姓伝蔵も,同じ下北平の穴井 勝氏の先祖と思われる.(小田多満太氏の説) 日田義民伝概説の表紙に戻る。 元に戻る。 |