日田義民伝概説シリーズ日田市の各地

90/09/12 20:05:09 NOSIDE 日田義民伝概説シリーズNO.14

** 日田義民伝概説シリーズNO.14

五)日田市の各地

遺品−>弁当入れ.鈴蓮町林の井上欽一(馬原庄屋の親戚)氏宅に,義民上京中に用いた と,伝えられる竹製の円筒の弁当入れが,秘蔵せられている.

慈眼山永興寺地蔵塔−>現在は永興寺重要文化財収納庫の西側に,他の石彫の供養塔等と 一緒に安置してある.高さ20センチメートル,一辺29センチメートルの六角形の台座 の上に,一辺18.5センチメートル,高さ47センチメートルの六角形の塔身がおかれ ている.

正面に地蔵大菩薩の5字が彫られていて,その向かって左の面に   勇阿 浄栄 浄恵    智阿 宗栄 宗善 と法名が彫ってある.竜川寺の馬原供養塔の「勇阿 浄知られていなかであり,「智阿  宗栄」は穴井六郎右衛門であり,飯田惣次は「義阿 浄恵」である.

併し浄恵と,宗善とがあるが,浄恵は惣次と思われるが,宗善も惣次であろうか?又は別 人であろうか.法名の何も彫っていない面の次には,   延享三寅年   勇穴井用丞教正 古城氏撰書の格調高い漢文の碑文がし るされている.

 景流寺と堀田−>六郎右衛門は求来里(くくり)村堀田の田畑二反六歩の内,三畝六歩 を景流寺に寄進し,残りは売却して江戸表直訴の費用に充てた.堀田は求町(もとめまち )の小西にあり,景流寺も同町の坂の下にある.

六)その他

 中川駅−>直訴の13ケ村は殆ど,九大線の沿線であり,かつ豊後中川駅は六郎右衛門 等の出身地たる馬原村の中心部に接しているので,昭和43年3月大分鉄道管理局は,豊 後中川駅構内に名所案内版N目にあたり,この時にも供養が行われたと思わ れる.

なお略系図によれば,庄屋穴井潤右絵門は,「...三名百年忌執行,郡内面立庄屋衆案 内,賑々敷事也」と百年忌(弘化2年か?)を執り行つているが,天保4年の供養塔はそ れより12年以前の建立である.併し願主の氏名等は勿論,その供養のことも,塔の存在 さえも知られていなかったので,少し詳しく述べたわけである.

亀山公園−>日田市大字庄手,亀山公園の南西の清流に面して,大正14年8月日田町 村の有志によって,建設せられた日田市郡で最大の 記念碑がある.「義民穴井六郎右衛 門之碑」と自然石に太く彫刻して下に,「大教正 古城氏撰書の格調高い漢文の碑文がし るされている.

 景流寺と堀田−>六郎右衛門は求来里(くくり)村堀田の田畑二反六歩の内,三畝六歩 を景流寺に寄進し,残りは売却して江戸表直訴の費用に充てた.堀田は求町(もとめまち )の小西にあり,景流寺も同町の坂の下にある.

六)その他

 中川駅−>直訴の13ケ村は殆ど,九大線の沿線であり,かつ豊後中川駅は六郎右衛門 等の出身地たる馬原村の中心部に接しているので,昭和43年3月大分鉄道管理局は,豊 後中川駅構内に名所案内版を建てた.併し老朽化したので,更に建立を申請中である.  下の釣−>徒党の一人で処刑の終わった頃出奔して,仏門(筑後善導寺)に入って,義 民の英霊を吊ったと伝えられる柚ノ木村組頭藤三郎は,大字合田字下の釣部落の人で, 小関小一郎氏は,その九代目の孫に当たる.(佐藤鎮寛氏による)

 柿西−>玖珠町柿西に,豊後一国払いの御仕置きの戸畑村組頭,柿ノ木儀三郎の墓があ る.碑の高さ41.2センチメートルで台石はなく,浄安不退位,の法名と延享五年辰五 月儀三良の字が刻られている.また御仕置きに際して内河野まんじゅうの由来も語り伝え られている.(中島明,日野秀次両氏調査)

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