飢餓の百姓と直訴の苦心

90/08/02 22:12:42 NOSIDE 日田義民伝概説シリーズNO.3



** 日田義民伝概説シリーズNO.3

**(二) 飢餓の百姓と直訴の苦心

 岡田代官は豊作凶年の別なく年貢徴収に専心したが,その凶年がしばしば襲来した. 着任した享保19年(1734)には大つじまき(旋風)があり,田方は半分の収穫であ った.元文2年(1737)は6月から7月にかけて50日の大干ばつであり,寛保元年 (1741)秋は大風が吹いて作物をいため,翌2年は20年ぶりの大洪水の,甚大なる 被害があり,さらにその翌3年8月13日は大風が吹いて農作物はもとより,各地の大木 が損する大被害であった.

その次の延享元年(1744)は大浮塵子(うんか)の発生で 稲作の被害が甚だしく,その上大水大風もあり,特に大水は50年ぶりの大洪水であった

翌2年も7月5日は町中が床上浸水の大洪水,13日も続く、同年の秋,馬原村10組の 組頭を自宅に召集して協議した結果,全員が手分けして,日田,玖珠両郡の庄屋の同意を得た上で,代表者が,減税と夫食拝借の嘆願をする事に決まった.早速33子の発生は凶作となってあらわれ,凶作は物価高と農民の飢餓とをもたらしたが,代官噂)とが,減税と夫食拝借の嘆願を行ったが聞き入れられなかった

(第一回嘆願).続いて求来里(くくり),刃連(ゆきい),上井手(のぼて),女子畑(お なごはた),苗代部,大鳥,湯山等近隣諸村の庄屋7,8人と愁訴哀願したが,これも失 敗に帰した.(第二回嘆願). 代官に愁訴しても聴き入れられない以上,残された唯一の手段は江戸表への直訴だけである.

そこでまた村内の組頭と百姓代を庄屋宅に召集して,協議した結果,組頭,百姓代は届,永荒.切添え等の無税の所にも課税しようとした.但しもう農民 には,年貢どころか食物もなかった.延享3年正月には多数の餓死者が出て,2月には, 数千人の百姓が領外に脱走する事件が起こってくるのである.

 この天領の農民の悲惨なありさまに,身を犠牲にして,これを救済しようとしたのが, 穴井六郎右衛門で,彼は先ず岡田代官に嘆願することにした.

 寛保2年の秋,馬原村10組の組頭を自宅に召集して協議した結果,全員が手分けして ,日田,玖珠両郡の庄屋の同意を得た上で,代表者が,減税と夫食拝借の嘆願をする事に 決まった.

早速33ケ村の同意を得たので,晩秋に六郎右衛門(庄屋代表)と草三郎組頭 飯田惣次(組頭代表)とが,減税と夫食拝借の嘆願を行ったが聞き入れられなかった(第 一回嘆願).続いて求来里(くくり),刃連(ゆきい),上井手(のぼて),女子畑(お なごはた),苗代部,大鳥,湯山等近隣諸村の庄屋7,8人と愁訴哀願したが,これも失 敗に帰した.(第二回嘆願).

 代官に愁訴しても聴き入れられない以上,残された唯一の手段は江戸表への直訴だけで ある.そこでまた村内の組頭と百姓代を庄屋宅に召集して,協議した結果,組頭,百姓代 は日田,玖珠の両郡内をひそかにまわって,直訴のための会合をしようと同意を求めた.

そして会合の日には同意をしていた殆どの村から代表の者が集まったが,重大な事件であ るから更に数日考慮すると云う事になった(第一回直訴寄り合いーー庄屋宅).

 次の寄り合いは,草三郎と玖珠境の,お茶屋場と言う山中で開かれたが,日田郡中から 20ケ村,玖珠郡から5,6ケ村の庄屋が集まっただけであった(第二回直訴寄り合いー ーお茶屋場).更に最後の協議のための寄り合いが開かれたが,この時は日田郡10ケ村 と玖珠郡からの3ケ村の庄屋だけであった(第三回直訴寄り合いーーお茶屋場).

 江戸表への直訴に同意する村村も確誰の冬には一応赦されて帰国し たのである.併し豊後国日田郡玖珠郡13ケ村庄屋宅の東南1000メートル代の下原部 落(当時一軒家)平左衛門方に組頭,百姓代を集めて,近隣の村村へ内談する事,妄に(妻子にも)口外せぬ事,寄り合いの費用等,第七ケ条の極証文をしたためて血判をした(第一回下原寄り合 い).

 次は11月24日同所で,直訴状が完成判形をとること,入用銀,江戸へ出府する者の 人選等四ケ条の極証文に血判した(第二回下原寄り合い).次は28日,近村に直訴条を 持参して印形を揃えるもの,銀子の調達をする者等の極証文の血判が行われた(第三回下 原寄り合い).12月5日7ケ村の代表の出銭の打ち合わせ,訴状への印形の事等の申し 極めと血判が行われた(第四回下原寄り合い).

 最後は12月22日に,費用の銀子刃24日までに届ける事,25日には出発する事の 申し極めの最後の血判状が作成された(第五回下原寄り合い).

 出発は隠密に行われ記録もないが,12月末に出発して,翌くる延享3年正月には江戸 に着き,直訴状と連判状とを評定所に提出して却下されたので,目安箱に投入したと伝え られている.

そのため捕らえられて入牢させられたが,同年の冬には一応赦されて帰国し たのである.併し豊後国日田郡玖珠郡13ケ村徒党強訴百姓一件御仕置きによって,12 月25日に捕らえられ,28日の暮れ6ツ刻(午後6時頃)に浄明寺川原で処刑せられた . 日田義民伝概説の表紙に戻る。

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