研究史料の部

** 「日田義民伝概説シリーズNO,8」



◎研究史料の部

(1)豊西記追補録

武石九右衛門の筆録で,日田義民伝(武石)にも,しばしば引用してあるが,岡田代官の 悪政,直訴状,十三ケ村徒党強訴百姓一件の御仕置,十五庄屋の表彰,三義民の処刑,其 の他が記されている.史実と百姓達に伝えられた話とである.なお同追補録はS54年, 日田史料(第21)として刊行された.

(2)大友没落後公料代官交代之記

 弘化4年に栄正寺了義の筆記したものであるが,「..岡田庄太夫源俊惟,享保19年 甲寅年甲州より来着支配20年,此公江府に功を立て,自分之立身を専にして,諸物残ら ず新に運上を懸んと謀れしを,馬原村庄屋父子大に愁へ江戸表へ越訴せん事を企つ,郡内 13ケ村此催しに属し,既に江府に訴せし処,右運上方ことごとく御停止となる...

張 本人なれば終に死罪に行はる,柚之木村藤次郎は出奔せし間罰せられず,後年筑後善導寺 に於いて入定す,されば此人々一命を抛(なげうつ)ち愁訴せしに依て郡中串難を遁たり .」等と伝えている.

(3)江戸直訴状

日田市尾当町中島秀雄氏所蔵で「御料豊後国日田郡村村百姓乍恐奉願上候御事」の題で, 「一当郡之儀元禄年中代官室七郎左衛門様御支配より...」の書き出しで,日田義民伝 (武石)70頁に引用の直訴状と,大意は同じであるが,日田義民伝に洩れている箇条も ある

.殊に,義民伝では愁訴の期日を゜延享3年寅正月」としているが,この訴状は「延 享2年丑11月」になっている.何回かの会合を開いて,文辞を練った中で,丑の11月 に書いた訴状であろう.尚六郎右衛門の義挙は,岡田代官の悪政とは,関係のない森藩領 の尾当(有田)にさへこの直訴状が伝えられた程の大事件であったことを思わせる.

(4)馬原村願写覚書帳

 日田市鶴城町古田梶原哲氏蔵で,表紙には「天保7年,凶年違作覚書,馬原村写覚,丙 申秋,梶原平右衛門」と並び記されている.丙申(天保7年か)秋に凶作について書いた 中に,延享2年丑11月の直訴状が引用せられておる.訴状は丑の11月の文を写したも のと思われるが,義民の直訴したことと,帰国したことが附記してある.

(5)豊後国日田永山年代記

 県立図書館の蔵書(写本)であるが,岡田庄太夫の項に,延享3年に,「正月より日田 郡併びに玖珠郡戸畑村の内併びに代太郎加へ14ケ村百姓共(か)私領へ掛込,夫食願い 致し度く強訴候処,庄太夫様より御吟味の上,頭取兵左衛門,同次男要助(は)獄門,同 村組頭惣治(は)死罪同年12月28日仰せ付けられ候,其の外国払い等数百人...」 とある.

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