日田史料第10回配本「諸家日記 3」

** 「日田義民伝概説シリーズNO.9」



(6)日田史料第10回配本「諸家日記 3」

直訴事件の時に代官所に務めていたと思われる人の日記で,その当時を知る上で貴重な資 料であるので,以下参考として少ししるすこととする.

 享保19年の10月朔日(ついたち)に岡田庄太夫様が御入部されたが,大のいぢわる で,不作であっても前の代官の豊年の通り課税せられたので,人々は限りなく嘆いた.

延享3年正月2日,飢饉で飢え死にが多い,それで(昨年の)冬から段々に,江戸へ訴訟 に上がるものがある.2月10日頃から五馬筋(いつますじ)と玖珠の百姓が,二千人ほ ど森藩領に走りこむ,千三,四百人ほどは小倉藩領に走りこむ,大山筋の800人余は, 久留米藩の吉井まで逃げた.これらは皆つれ帰ったが,5人は入牢,2人は手錠の刑罰に 処せられた.

13ケ村の者が毎日毎日,牢に入れられ魚町の蔵にも38人入る.

 4月15日筑前藩から五百石取六百石取の一組二十二,三人の武士四組が警固のため来 着して,二組は豆田町に宿泊し,二組は渡里村に宿泊した.17日には千石取りの武士の 組が来て大超寺に宿泊したが,この人達は皆出陣の用意をしていた.

20日御上使が御着きになり,富永靭負様(1300石)は伊豫屋申左衛門方に御宿,酒 依清十郎様(900石)は油屋平次郎方に御宿,神谷左門様(2100石)は長福寺に御 宿.御上使様の人足が四人御とがめをうけて,七日のつなぎ手錠,五月二日久留米から侍 衆が一組,森からも一組来て,いずれも2,3日宛逗留して帰られた....

又13ケ村より他に血判した者が知れて手錠入りがだいぶん出来た.

六月21日牢屋が破損したので修理したところ大工の手間や金具代が大ぶんかかった. 又入牢者が多い魚町の空き家を修理して,町中所々に罪人を入れた.

12月29日馬原隠居兵左衛門悴要助の二人は獄門,同村百姓惣次郎死罪,戸畑,馬原両 村の者五人田畑家財取上豊後一国払い,村村にて12人田畑取上所払,又10人は田畑家 財取上所払,又26人右同断,又70人は過料10貫文より7貫文迄出し御赦免,又30 日手錠に而御赦免,又13人御しかりにて御赦免...,御ほうびの分白銀10枚大小仰 せ付けらるる庄屋...

(7)懐旧楼筆記(淡窓全集上)

土人に苗字帯刀永々御免ノコト,イマダカッテ旧例ナシ,百年前,土民党ヲ結ビ,上ヲ犯 スコトアリシトキ,荘屋二人功ヲ立ツルコトアリ,苗字帯刀ヲ許サル」とあり,淡窓先生 も直訴事件を,よくしっておられたのである.

(8)豊後四日市村年代記

四日市は西国郡代(日田在陣)の陣屋のあった処であり,この史料は庄屋渡辺氏の慶長四 年(1599)から明和四年(1767)にわたる「年代記」であるが,中山重記氏はこ れを豊後四日市村年代記として,大分県地方史に昭和四十八年から七懐にわたって発表し た.その延享三年(大分県地方史77号)の項に,

当春日田郡13ケ村の百姓立退,筑前,筑後,小倉,玖珠辺に有附,御代官より江戸伺に 相成,12月27日,日田間原村庄屋全佐衛門親子獄門.組頭壱人打首残12ケ村280 軒御追放.

と書かれている.文中の「間原」は「馬原」であり,「全佐衛門」は「六郎右衛門」であ る.六郎右衛門の義挙は,遠い四日市の庄屋にも伝わっていたのである.

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