長 梅外(ちょう ばいがい)勤王家

**長 梅外(ちょう ばいがい)勤王家 **



幼名は加脳(かのう),名は允(まこと),字は允分(いんぶん),世文(せいぶん) 号を梅外また南染(なんりょう)

文化7年(1810)4月6日生,明治18年(1885)10月28日没 76才

墓はもと東京都青山墓地にあったが現在は不明.法名,隴雲院梅外清達

梅外は日田郡五馬(いつま)市村(現天瀬町)専称寺に従超(後に長谷良民)の長男とし て生まれた.

長谷氏は江戸初期,長谷三位時篤の子から出たといわれる.梅外の祖父尭薫の頃は既に五 馬市に住んでいた.19才の時梅外は赤石村の医師小野玉泉の家に間借りして医術の修業 をし,才能を認められ玉泉の娘と結婚小野姓を称した.

天保元年(1830)養父が死去し,三人の子どもと,妻も死去するという不運に遭った 馬原村八幡郡右衛門の娘千里と再婚し,妻の姉婿の家で医者を開業独立した,この時生ま れたのが,長 三洲である.千里ね才媛であり竹香閣夫人と号して漢詩一巻を残している この頃淡窓のもとに出入りして指導を受けている.

天保10年(1839)英彦山の座主甘露明王院に招かれてその祐筆となって入山して, また,心遠処塾を開いて僧徒に経学や,詩文を教授している.

江戸末期の頃世情不安から尊皇思想が高まり梅外もこれを奉じて衆徒達に説いた. 天保の末から梅外は京阪,九州各地を巡って志士と交わり嘉永3年長崎,天草,柳川,稙 田(大分市)で子弟を集めて教育した.安政2年には宇佐郡四日市に茂園学舎を開き文久 2年には速見郡石垣村(現別府市)で教鞭をとっている.

梅外は長男光太郎(三洲),次男愛次郎(春堂),三男倉之助(子翼),四男綱吉(古雪 )と皆咸宜園に入門させている.

慶應2年頃になると勤皇活動している長男三洲への日田郡代の追求が厳しくなり,その関 係で梅外,春堂にもおよんだ゛,梅外は春堂の連絡により難を逃れて毛利藩萩の藩校明倫 館の教授となったが,春堂はとらわれの身となり慶應3年10月11日風邪をこじらせ3 1才で獄死した.

征討軍に従った三洲は明治新政府に出仕した,梅外は還暦を迎え又一と改名し,三洲に迎 えられて東京に移った.

明治13年斯文会を起こして講師となり指導にあたった.

梅外の著作:左伝彙箋,在迩録,古今異字叢,梅外詩抄七巻,唐宋詩醇抄5巻,詩書評釈 ,同拾遺,春堂遺稿がある.

参考資料:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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