長 三洲(ちょう さんしゅう)勤王家 

**長 三洲(ちょう さんしゅう)勤王家 **

通称幼名,富太郎のち光太郎,名は莢(ひかる)字は世章,号を三洲,蝶生,韻華,秋史 ,紅雪など

天保4年(1833)9月23日生,明治28年(1895)3月13日没 63才 墓は東京多摩霊園,法名,幽幻庵清韻三洲居士

三洲は梅外の長子,日田郡馬原村(現天瀬町)の母の義兄矢幡家で生まれた. 弘化2年(1845)10月一端咸宜園に入門したが入塾費がなく,同4年15才の時再 び塾に入った.塾では1年足らずで八級に至り,同五年六月三洲は彦山に行って8ケ月を 過ごし,翌年二月弟春堂と共に再度入塾した.

嘉永三年四月18才で退塾した. この頃同年位で学業を競いあったのが広瀬孝之助(林外)と田代俊次(潤卿)であった. この三人は宜園三才子と呼ばれ親友となった.

20才の頃三洲は大坂で塾を開いていた,広瀬旭荘に塾を手伝う様要請を受け大坂咸宜園 で手伝いながら知名士と知り合い成長をとげた.

三洲は学問するより,行動するタイプの人物であったから安政4年旭荘のもとを辞し,長 州で桂小五郎(木戸孝允)土居粛海らと会った後日田に一度帰って以後東奔西走で尊王攘 夷運動に身を委ねる.

文久3年高杉晋作が奇兵隊を結成すると,これに応じ中隊長として元治元年(1864) の英,米,仏,蘭との戦闘にも参加して負傷したりした.長州が幕府に負けると三洲は, 豊後各地に潜んで再挙をはかった.

慶應4年(明治元年1868)正月鳥羽伏見の戦いから三洲は参謀として奥州征討に従軍 し,会津攻略後長州に帰った.

明治三年新政府の太政官権大史に任ぜられ,江藤新平と共に働いた. この頃の長三洲の「新封建論」の草稿が廃藩置県の成功をもたらしたと木戸孝允は云った と言う.

明治5年2月三洲は文部少丞に任じられ,学制取調掛を命ぜられ,「学制五篇の案」を 作った.同年10月には文部大丞になり学区巡視をして大分県知事に教育改善を促した. 以後三洲は数々の要職を歴任,又,明治天皇の待読,待書なども勤めたが明治12年(1 879)47才の時すべての公職から身を引いた.

明治13年重野安繹,川田剛ら同好の士と斯文学会を創立し又,香草社を起こして,詩, 書,画等の文雅を楽しんだ.

39才で清国に赴いた時,応宝時,夏家稿,等の当時の著名な詩人に賞せられ,李鴻章も 礼儀を持って待遇したという.

書は蘇東坡,後に顔真卿を習い,画は田能村竹田の画風にまねた.特に蘭,竹が得意であ った.又,細工物の篆刻(てんこく)が巧みであった.

彼の作品は没後「三洲居士集」11巻(5冊)に収録されている.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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