広瀬旭荘(ひろせぎょくそう)儒者,詩人

** 広瀬旭荘 (ひろせぎょくそう)儒者,詩人 **



通称,謙吉,名は謙,字を吉甫,号は初め,秋村,後に旭荘,又は,梅(土敦)(ばいと ん)  文化4年(1807)5月17日生,文久3年(1863)8月17日没57才

墓は大坂四天王寺邦福寺から統国寺に移転,日田市中城町長生園に文葬 諡を文敏先生

旭荘は日田郡豆田町の博多屋広瀬三郎右衛門(桃秋)の八男に生まれた.淡窓,久兵衛ら の兄弟の末弟,旭荘6才の時母親のユイがなくなり父桃秋は大変かわいがった,がしつけ は厳しかった.

10才の頃兄淡窓の桂林園に入門して,本格的に勉学に勤め,13才から久兵衛のもとで 家業を手伝いながら勉学に励んだが,父桃秋は旭荘に勉学の志しがある事を知って,淡窓 の跡を継ぐ様に進めたので,文政6年(1823)2月淡窓の義子となって,勉学に専念 した.

その年の9月福岡の亀井塾に入門,頭角を現し,都講に任ぜられた. 文政8年亀井塾を退き,帰郷,その冬から病で床につく兄,淡窓に代わって塾政をとった 文政11年豊前浮殿(宇佐と豊後高田の境)に塾を開いた.

文政13年(天保元年)24才の旭荘が咸宜園を継ぐ事に決まり淡窓は旭荘に塾政を委ね た.

天保2年塾政に日田郡代塩谷大四郎の干渉,叱責が降り懸かり咸宜園も揺れ,塾生の数も 減少した.

天保5年父が亡くなり,又郡代も役替えになると,旭荘は日田から出る事を決意し,天保 7年4月堺で塾を開き,日田,江戸,大坂と言う生活を数年した後,大坂に帰った.

天保14年5月大坂の塾を閉じて江戸に上った. 江戸での塾は盛大であったが,大病を煩ったり,日田から呼び寄せた妻が29才で亡くな ったり,正月客の刀紛出の探索費,さらには,金品の盗難等で,5,6百両の借金ができ た.

弘化3年(1846)8月大坂に戻り,塾を開いて,借金の返済に努め,嘉永4年(18 51)6月に完了したと言う.

旭荘は記憶力が抜群に良くて,亀井塾の師亀井昭陽に「活字典」{生き字引}といわれる 程であった.

旭荘の詩を評して,斉藤松堂は「構想は泉が湧き,潮が打ち上げる様,字句は,球が坂を ころげ,馬が駆け降りる様,雲が踊り,風が木の葉を舞上げる様だ」と言い,中国清末の 儒者,愈曲園は「東国詩人の冠」S評している.

荘の著書:「梅(土敦)詩鈔」4編12巻,「日間瑣事備忘(日記)」,「九桂草堂随 筆」,「明史小批」,「塗説」等の遺稿がある.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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