行徳 元遂(ぎょうとくげんずい)

**行徳 元遂(ぎょうとくげんずい)**



通称:元遂,諱は恕,号は楽山

文化5年(1808)9月26日生,慶應元年(1865)7月4日没58才

墓は日田市夜明関町の行時家墓地,法名慈眼院寿楽山法橋大徳

元遂は医師行徳元亮の次男として大坂に生まれた. 行徳家は武蔵七党の一つ熊谷氏の流れを汲み熊谷直政の孫直住が浮羽郡行徳に居を定めた のに始まる.その子三郎右衛門直繁から浮羽郡水分村松門寺(現田主丸)に住み五代元育 のとき初めて眼科医となった.元亮は元育の孫元潤の次男である.

元亮は23才の時大坂に出て医学を修め大坂で眼科医をしていたが文政4年(1821) 64才の時日田郡関村に移って来た.元遂も父に従い14才であった.

元遂は幼い頃虚弱であった.20才の秋父に連れられ広瀬淡窓を訪ねた.入門はしてない が,講義を受けている.元遂は京,大坂で医学を修めて,典薬頭丹波頼之から法橋(ほっ きょう)の位を受けている.

元遂は父の跡を継いで医師となり診療に励むばかりでなく,善行の志しを実行していった . 天保年間の凶作,飢饉の時,病人の診察,投薬は勿論,自ら義援金を出し,又富裕家を説 いて金や物資の拠出を求め困窮の人々を救った.

この天保年間の飢饉の惨状から,食料備蓄の必要を痛感し,独力で日常生活を倹約して1 0年目にして銭100貫文(金25両位)を貯めて囲い米の基本金とし,尚増額をはかり ながらその利息で救米を貯えた.

また元遂は村の70才以上の老人には小使いを贈り,15才以下の子供には筆,紙,墨を やって学習をすすめ,生まれてくる子供には着物をプレゼントしたりした. 大肥川にかかる小橋が大雨で度々流されるので,豆田の広瀬久兵衛,千原幸右衛門らと謀 り石橋架設の許可を代官池田岩之丞から取り,嘉永2年茶屋ノ瀬の地に30米に及ぶ眼鏡 橋を竣工した.これは代官によって「歌詠橋(かえいばし)」と名付られた.

これと同じ頃上流100メートルの所に豆田の手島儀七と謀って,小月橋を架けたが両方 とも一年程後の大洪水によって流され,今では歌詠橋の木版画と,小月橋の橋脚が残るの みである.

又,夜明の道が険しく難儀が多かったので新道の開設を企画して,豆田,隈の富豪を動か して,3年2ケ月を要して文久2年(1862)4月竣工した.これが金山道路である. 元遂の没後墓碑建立の企画があったが,元遂の遺言により,行徳家は顕彰の行事を固辞し たので碑は立っていないが,夜明地区の盆踊りの一節に,

関の元遂さんは 仏か神か 旅のお方が 手を合わす  と唄われている.

行徳家には「家伝天竜丸」と彫った木の看板が保存されているし,行徳家住宅は建造物と して国の重要文化財の指定を受けている.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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