樋口安左衛門 公益事業家

**樋口安左衛門 公益事業家 **



通称安左衛門,諱は謙言(かねこと)

宝暦6年(1756)生,文化5年(1808)没 53才

墓は石井町 樋口家墓地にあり,法名:釈逝川

安左衛門謙言は日田郡石井村(現石井町2丁目)の豪農樋口家に生まれた.樋口家は系図 では木曽義仲の徒党樋口次郎兼光に始まるとしている.

近世の初めには日田に居住していたと思われ,後,鍛冶屋として大きくなり,さらに造り 酒屋を営んで当主は安左衛門を名乗った.謙言は第24代である.

樋口家は当時日田郡一の豪農であったが暮らしは質素で家業の傍ら製紙等をしていたらし い.

石井村は交通の要所であったが,山腹の急斜面で坂が多く,とがった岩が突き出ていて非 常に歩きにくく,しかも,洪水,土砂崩れが頻繁に起きて,年貢の運搬にも支障をきたし ていた.

寛政5年日田代官羽倉権九郎(後に郡代に昇格)は村方入用銀の減少をはかり道路改修を 行うなど民政に心を用いた名郡代と言われた一人で,この工事断行を決意して石井村豪農 であった樋口安左衛門謙言に命じた.

安左衛門は世の為人の為に投ずる財だから失敗しても惜しくないとこの命を承け費用一切 を負担して新道の開設工事にかかった.文化2年(1805)の春に始め,秋に完成した .この工事は単なる道の改修ではなく,新道を通すものであった.

これを記念した「加々鶴新道碑」は淡窓撰文,雲霞道人の書で,現在国道210号線加々 鶴トンネル日田側入り口左側の陰に立っている.

文化3年高瀬,上野村村の庄屋によって加々鶴新道の東,筏場に眼鏡橋が架けられ,嘉永 6年(1853)山田常良が改修して石畳にした.

参考文献:日田の先哲,日田市教育委員会発行

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