諌山 菽村(いさやま しゅくそん)儒医

**諌山 菽村(いさやま しゅくそん)儒医 **



通称幼時,與吉(よきち)後に東作,字は平甫,号は菽村,燈園

文政8年(1825)3月生,明治26年(1893)1月25日没 69才

墓は日田市秋山町夕田(城町慈眼山東),諌山家墓地

菽村は豆田医師諌山安民の長男,本姓が菅原で太宰府天満宮の神職であったが,羽野天満 宮(現日田市天神町)にゆかりがあり,日田に移り住んだ.

菽村は淡窓門下の第一期生で後に福岡亀井塾に学び,秋月,大坂で医学の修行を経て,  36才で日田市豆田で医師を開業,日田代官所の典医となり,帯刀を許された.

捨て子があれば,連れてきて,自費で養育していたが,個人では限界があり,明治2年( 1869)日田県知事松方正義を説き数百両の基金を拠出させ,又,草野忠右衛門,広瀬 源兵衛等を説いて,2000両の基金を集め,豆田三本松に「養育館」を新築し,捨て子 ,孤児,貧乏家庭の子まで収容して,養育にあたった.又同時に堕胎等の風習の根絶をは かった.しかし,松方の転地,大分県への編入で,明治6年に経済的に困窮し閉鎖した. この間360数名を養育した.現在三本松市営駐車場横に日田養育館址の石碑がある.

明治11年月隈山麓の代官所跡に「三隈義校」を越し,森藩士,宮本氏を教授にした,後 に下毛郡中摩の医師村上姑南に継承させたが,財政難で,日田郡組合立数英中学に子弟を 吸収された.

姑南は田島宮太夫(みやんたい)の竜馬の森の寓居に私塾「学思館」を開いた. 菽村の咸宜園再興に対する情熱は深く,和漢書籍の保存や,塾の財政資金の確保の為に働 き,努力した.そして明治21年11月−25年4月まで開塾したが健康を害して,やむ なく閉じた.

後,明治29年5月から1年間勝屋明浜(かつやめいひん)によって開塾,閉じた後咸宜 園は廃絶となった.

菽村は「学問の第一義は,学んでこれを行うにあり」として,淡窓の万善簿にならって 「修身録」をつくり,実行した.

明治12年の著書「天行厥病論」は漢方医浅田宗伯に激賞され上京を促されたが,これを 断った.

梅杏は従来花に因あり,一生の活計は,春を離れず,門前に併せ得たり,両端の策,薬を 乞う人,又画を乞う人

菽村は又詩や画をたしなみ,特に梅の画を好んだ.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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