草野 宗内(くさのそうない)公益事業家

** 草野 宗内(くさのそうない)公益事業家 **



通称は幼児時宗吉,忠右衛門を襲名,隠居して宗内,諱は重安

安永7年(1778)生,嘉永5年(1852)6月9日没73才

墓は丸の内町草野家墓地.法名 宗観

宗内は日田郡豆田町の□十(かくじゅう屋号)升屋,草野氏五代忠右衛門の子息に生まれ た.草野氏は中世筑後草野村(現久留米市草野)の領主草野太郎経門に始まるとされる. 日田永山城主石川主殿頭の家臣,矢野氏の男児が草野家の聟に入って忠右衛門を名乗り, 家督を継いだ.寛永18年(1641)豆田町に居を構えて初代となり以後豆田の豪商と して繁栄した.元禄の頃から木蝋の製造も営んだ.

公益事業にも惜しまず私財を投じ尽力した.文政5年広瀬久兵衛とともに中城村,堀田村 の庄屋に任ぜられた.

宗内の公益事業の第一は小ケ瀬堰と水路の開鑿(かいさく)である.文政5年郡代塩谷大 四郎から許可を得て,御用掛を命ぜられた宗内は13才の子息松之助(閑三)に家事一切 を委せて翌6年4月に着工した.工事の方は久兵衛が監督し,宗内は主として会計事務を 担当したが,必要な経費の立替等毎日手弁当で勤めた.文政8年4月に竣工して, 上井手,下井手,刃連,田島,陣屋廻り(現丸山町),城内,友田,渡里,中城,堀田, 庄手,竹田,十二町の13ケ村が潤った.

天保11年(1840)に小ケ瀬井路のさらいや,補修維持のため,宗内250両,久兵 衛250両,山田作兵衛(常良)500両を拠出し基金をつくって永くに備えた.

ついで宇佐,国東の海岸の干拓による新田開発,天保5年(1834)の筑前怡土(いと )郡の千早新田開発にも参画尽力した.

天保7年(1836)は全国的兇荒や,嘉永3年(1850)の不作の時には,米や,金 銭を施したりして,同年幕府より苗字帯刀を許された.

草野住宅跡は市指定史跡となっている.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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