森 春樹(もり はるき)国学者

**森 春樹(もり はるき)国学者 **



幼名は善次郎,後に平九郎,家督を継いで伊左衛門,隠居して政(雅)助,成作(策) 一郎とも言う.諱を春樹,雅号は仁里,寥洲,士碧,五朱堂,睡鴎閑客,対鴎閣主人, 悠然亭主人

明和8年(1771)6月3日生,天保5年(1834)8月30日没 64才 墓は本町広円寺内,法名:宗樹

春樹は日田郡隈町の紺屋町(現隈二丁目)豪商まる三鍋屋第二世,森伊左衛門常勝(号五 石)の長男に生まれた.後の千原夕田と共に天領日田を代表する文人である.

五石は漢籍に明るく俳諧,狂歌をたしなむなど多趣味であったが豆田の後藤方大と並んで 日田画壇の最初の画人となった.又,竹田に酒造りの出店があって,商売の関係で竹田に 赴き田能村竹田と親交を結んだ.

春樹は寛政9年(1797)27才の時豊後国志の編纂をすすめていた岡藩,儒唐橋世済 の求めに応じて「日田郡志」および「玖珠郡志」を書いた.

当時国学者の師と言われる荒木由久老につき,31才の時大坂で木村蒹葭堂に会っている .

享和二年(1802)正月,私財を投じて上野村(現鏡坂)に景行天皇日田行幸の碑を建 立,書は中国の蒋重耀,碑文は万葉仮名で

すめらぎの いむきたたしく このさかに かくるかがみの なこそくちせね の歌を刻んでいる.

享和三年33才に家督を相続し,まる三鍋屋伊左衛門を襲名したが,家業は不得意で,趣 味や,学芸に心を奪われて,金と時間をそそぎ込んだので,森家は禁治産者処遇にした. 春樹の著書:造領記,亀山鈔,蓬生談,豊西説話,太宰管内志序,俚言抄,豊国名勝史, 地名字音転用例,隈川通船一件万変記,等不在不明の著書などの編纂,掘り起こし. また頼山陽などとも親交があった.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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