長野 野紅,長野 りん 夫妻 俳人

** 長野 野紅,長野 りん 夫妻 俳人 **



野紅:通称,三郎右衛門.諱は直玄(なおみち).俳号を野紅(やこう),または,

   椿底舎(ちんていしゃ),椿翁(ちんおう),藤水舎(とうすいしゃ)とも号した

   万治3年(1660)生,元文5年(1740)12月28日没,81才

   法名:春山居士(しゅんざんこじ)

りん:舎号を藤の井,りん女,りん婦,林女,綸女,倫とも書く

   延宝2年(1674)生,宝暦7年(1757)3月21日没,84才

   法名:釈尼貞翔(しゃくにていしょう)

   墓は吹上原下,長野家墓地

長野野紅,りん夫妻はともに俳諧に志し,先輩坂本朱拙と深く交わって,日田の俳諧文芸 の興隆に尽力した.

長野家は豊後諸家の源流の一つ,清原正高に発する.野紅は父新左衛門直成,母やつ,の 間に生まれ家を継いで里正(庄屋)なった.妻に先立たれたので,筑前秋月の医師遠山柳 仙の娘りんを後妻に迎えた.

 野紅が俳諧の道に入ったのは坂本朱拙の手引きにより又,中村西国とは姻戚関係にあた る,りんは夫に感化されたものではあるが,素地に文学的教養があったと思われる.

野紅は後に志太野坡(しだやば)に心酔して,その号の一字をとって野紅とした. りんは庭の片隅の井戸の側の藤の木か気に入りで,藤の井と称した.また,当時女流俳人 加賀千代女と並び称されて,夫を凌ぐ名声を得た.

長野家所蔵の一幅に,双白堂と大書きして,その両側に,各務支考の野紅を讃える東の銘 と,森川許六のりんを讃える西の銘が掲げられている.

野紅の撰書:元禄16年(1703)刊「小柑子(しょうこうじ)」

      宝永3年刊「梅が香.彦山家」

りんの編著稿本:「紫藤の井」「若草」

又,「歌仙貝」は貝を題に両人がそれぞれ歌仙を巻いたものである.

長野邸には野坡をはじめ,多くの著名な俳人が立ち寄っている,元禄8年冬には広瀬惟然 が,元禄11年6月には支考が雲鈴と,元禄15年11月末,野坡が,享保元年七月には ,沢(月空庵)露川が燕説と,ほかにも,八十村路道,河合曽良,榎並舎羅,怒風,風国 ,天垂などが訪れている.

吾が門の 風流この地に 楽しむべし      各務支考

水や空 藤の雫の 落ちこぼれ         八十村路道

墨うすき 絵に似て里の 砧(きぬた)かな   野紅

山陰を くっていでたる 鵜の火哉       野紅

労(つかれ)れ鵜の せりおとさるる 舳(へさき)かな   りん

鵜の鮎の 年貢とらるる あわれさよ      野坡

野坡は夫妻にとって50年来の師であり,友であった.野坡の訃報を聞いてりんは,

鴬の 袖や乾かず 雨千里     りん

の句を捧げた.

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当時の日田の俳人

大神紫道(おおがしどう)...渡里村(現吹上町)長善寺住職

武内里仙...友田村(現北友田1丁目)通称,伊左衛門,香炉庵,杉林庵,後剃髪して        潮音居士

吉弘釣壷 ...小野村(現鈴連町)本業は医師,恕庵

参考資料:日田の先哲 日田市教育委員会発行

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