大蔵永常

**「大蔵永常」 **

江戸時代三大農学者の一人,すなわち,宮崎安貞,佐藤信淵,大蔵永常である.

明和5年(1768)豊後国日田郡日田の農家に生まれる.祖父の名は傳兵衛,父の名は 伊助,4番目の子が永常である.通り名が十九兵衛ないし徳兵衛,後年喜太夫,または, 喜内と称す.別号,受和園.孟純,黄葉園,さらには晩年,亀翁と号す.又三河の田原で は苗字に日田と称している.

少年の頃日田の鍋屋という生蝋問屋の丁稚となり以後薩摩で精糖技術を習得,九州各地を 転々としながら,色々な技術を習得し,29歳の時長崎を立って,大坂へ,その後近畿, 中国,北陸,東海,関東を放歴,逐次色々な技術等を見聞し,農書を編述した.

文化7年江戸で有識要路の士に知己を求め,関東各藩にその産業を進言,傍ら駿河等に精 糖方法を伝授した.晩年,渡辺華山の紹介で三河田原の三宅藩に興産方として,後,遠江 浜松に水野忠邦の嘱を受けて仕えた.忠邦失脚後暇を得て,江戸に出て著述に携わり,そ の間幕府要職に就いた.89歳に生存説もあるが没年,没地,子孫等は不明である. 著作30余種に及んでいる.

永常農学の特徴は,技術者的色彩が強く,農事に詳しかったのみでなく,産業各般に精通 した先覚的なものであった.つまり,各地を転々としながら,実地について技術を習得し ,見聞に努めて,画期的な農家経済の進路を示したのである.

農家経済を堅実にし,その向上を促す為に,貨幣収入の増加を図るのを建て前とした.こ の点従来の自給的主穀農業に対して別に原料的特用作物の栽培と更に,製造加工の術をお こし,新たな農業の方向を示した.そして,著述によってことごとくその説を普及せしめ た.

その説述は実地を基礎としたから特用作物の栽培に於いても,土地利用の集約度を高める べく,山野,堤防に及ぼしている.しかしながら食料穀物の増産も等閑に附した訳ではな く,新規技術を施す事に重点をおいた.従って,肥料の成分を究明してその合理性を唱え ,病虫害の駆除を盛んに提唱した.別に農具の選択を急務として,各地につき,農具の形 態,性能についての観察を通して,優良農具の普及を図るために,農具の使用法,さらに は製作費用まで明らかにした.これらは当時度々襲う凶作克服の信念に基ずくもので,当 時比較的農業先進地の九州の農業水準にまで高めるのを目的とした.

大蔵永常の農書にでてくる農作物の種類は50種類位に過ぎないが著しく専門的である. その著書を分類すれば次の三項目に分類できる.

一)稲作を中心とする主穀農業に関する著書

老農茶話,耕作便覧,豊稼録,再板豊稼録,農具便利論,再種方,除蝗録各論,農家肥培論,門田之栄,門田之栄三編上

二)特用作物及び諸種の製造加工に関するもの,これらは社会的産業の興発で同時に農家   経済の革新を目的とする.

農家益各論,製葛録,油菜録,甘庶大成,廣益国産考,琉藺百才,抄紙必用,農稼業事後編

三)農民生活の指導を目的とするもので,物質と精神の両面に渡り,前者は消費の合理化 から,救荒対策に及び,後者はもっぱら処世教養に関するもので,経営上の注意から当時 のいわゆる童蒙訓の類に及ぶ.

民家育草,文章早引,文章かなづかい,田家茶話,日用助食竈(かまど)の賑ひ(全) ,徳用食鑑,農家心得草,植物能毒集,山家薬方集,勧善夜話各論.救荒必覧 以上は共に農家,農民の福利と生活向上をはかり,同時に,国家的社会経済の発展 を促す目的であり,その理想とする所は,生産の拡充と農家生活の向上充実にあった.

永常35歳の時の最初の著書「農家益」には次の様な構成に成っている.

一)櫨植法並蝋製法        初編 三冊

一)櫨植法並蝋製法 後編     二編 二冊

一)琉球藺作法並琉球むしろおり様 三編 一冊

一)甘蔗作法並黒白氷砂糖製法,黒砂糖をもって白にする法 四編 三冊

一)草線作法           五編 二冊 

一)藍作法            六編 一冊

一)楮(こうぞ)作法並紙の漉よう 七編 三冊

一)桐樹作法           八編 一冊 

一)杉,桧作法          九編 二冊

一)雑部             十編 四冊

附記:この巻は国所土地によって農具の用様,同図,水旱の手当,地の堀よう,洪水の節 堤の防ぎよう,稲の干しようによって利方有る事,深田を乾かし麦蒔き仕様,稲蝗の去り よう,その他農家の益となるべき事どもを集めて記す)とある. 

又彼の代表作と言われる「広益国産考」の第八巻には次の様な項目が述べられている.

食料 :芋,甘藷,大豆,玉しょく黍(ぎょくしょくしょく(トウモロコシ)

果実 :蜜柑,葡萄,柿,梨,梅

嗜好料:砂糖,茶,煙草

薬料 :川きゅう(佳),芍薬,茯りょう,肉桂

澱粉料:葛,蕨,ひかい(ところ),當帰,王瓜,桔楼(黄からす瓜)

染料 :紅花,藍,紫草,五倍子(付子..アブラムシ等の寄生に寄ってできる中えい)

繊維料:木綿,麻,とう麻,藺(りん),七島藺,楮(こうぞ),三椏,う梠

油蝋料:油菜,油桐,櫨,漆

畜産 :蚕及び桑,蜜蜂,鶏

水産 :海苔,年魚

工産 :紙雛人形,素麺,油,醤油,焔油,織物,蝋

林産 :桐,松,杉,桧,竹,栗,椎茸,きくらげ,木炭

以上十二項六十品に及ぶ,永常は,余作つまり副業を興して貨幣の獲得を講じ,別に製造 加工を加えて,時勢に対応して需要の多い産物の生産を計れと説いたのである

. これらの考え方は,米問題に揺れる,現在の農家にも通じるもので,付加価値の高い作物 を作って,しかも,加工,工業製品までに発展させる事を,すでに200年前の江戸期に 説いているのである.

業績:

(一) 櫨の普及と蝋の製造...父親か蝋工場に努めていた関係もあって,蝋の製造技 術は幼少の頃から,父親の手伝い等を通じて覚えたらしい.櫨は薩摩の桜島に発し,筑後 浮羽郡の那亀王村の庄屋や,日田郡川内村庄屋半蔵,同山田村庄屋善蔵らによって初めて 栽培された松山種が,海を超えて東海の三河,遠江,大井川を経て駿河へ伝えられた. 今でも浮羽郡の川の土手沿いに櫨の木が並んでいる.

(二) 精糖技術の普及...当時砂糖の使用量は相当になっていたが,精糖技術の未熟 の為品質的に劣っていたのでほとんどが輸入に頼っていた.その中で国内では薩摩だけが 殆ど独占の形で砂糖を供給していたのである.

薩摩には砂糖製法として琉球の法,と三島流(奄美大島流)の精糖技術があり,これらの 技法を固く秘してもらさなかったのである.

その様な状況下にあって永常は薩摩よりその技法を体得し,又,製造器具の図面まで写し て,これを日向の延岡に伝えた.

永常の出郷の動機の一つはこの精糖技術の獲得にあった

. (三) 農機具の改良...各地を見聞し,観察し,性能,形態の比較,地形,地質を研 究して農具の改良を説いた.彼は各地を転々としながら,農具の正確な写生図,形態,角 度,寸法,使用法,耐久力,各呼称,方言等を区分,分類して歩いた.

その中で特筆すべきは,農具の製作中心地,堺港での農具の製作費用まで計上して,その 経済性をも指摘している.この事が後の明治17年の農商務省の農具調査にも影響を与え ていると思われる.

(四) 除蝗技術を広める...浮塵子(うんか)の発生による虫害にたいして,これを 駆除するのに鯨の油を用いると効果があると,普及に尽くした.

(五) 三州田原での業績

1)楮(こうぞ)の移植と製紙技術を伝える. 

2)土焼き人形...農家の副業として,伏見,と名古屋で調模して三州田原に広めた

3)報民倉の設置..藩主と民間の協力で作った一種の義倉..官民一同から穀類の寄託 を受け,これを救荒用に充てる事を目的とした,これは明治維新まで利用された.

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渡辺華山の推挙によって,三州田原の興産方として職を得た永常も天保10年5月の寄稿 事件(蕃社の獄)以後職を解かれたが,今度は,水野忠邦によって遠江の浜松に職を得た ,そして,水野忠邦失脚後は,江戸に登り著述に携わりながら,幕府の要職を務めた, しかし晩年の様子は詳しくは判らない.

永常は決して学者タイプではなかった,教養もそれほど認められない,むしろ,各地を転 々としながらの見聞,実務についての技術の体得は技術者タイプで,なおかつ,産業各般 に精通した,当時としては異色の存在であった.

櫨の技術などは同期の農学者,佐藤信淵 も一目置いていた.この技術者的で有る事が,渡辺華山の処刑後,水野忠邦に嘱を受けた り,水野後,幕府に登用されたりしたのである.

                           おわり

参考資料:S18.3.5発行 早川孝太郎著 「大蔵永常」山岡書店発行 より

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