広瀬 林外(ひろせ りんがい)

**広瀬 林外(ひろせ りんがい) **

通称,孝之助,名は考,字は維孝,号を林外

天保7年(1836)9月29日生,明治7年(1874)5月14日没 39才

墓は東京多摩墓地,日田市中城町長生園に分葬,諡を文靖先生

林外は旭荘の長男である.筑後吉木(現久留米市草野)の母の実家で生まれた. 旭荘は淡窓の弟であるが,義子となっていたので林外にとっては淡窓は祖父になる. 林外は旭荘が大坂にあり,母も旭荘の上京に際して東京へ行ったので8才から淡窓夫妻に よって育てられた.

8才で咸宜園に入門17才で権都講となった.林外,長三洲,筑後の田代潤卿を宜園の三 才という.

淡窓後,青邨を経て,文久2年(1862)に塾政をまかされた.林外の門人には,清浦 圭吾,横田国臣,朝吹英二,等がいる.

元治元年(1864)日田郡代に窪田郡代が着任になると宜園は否応なく郡代の所属にさ せられ,林外は,政治と教育の狭間にゆれ,一時期咸宜園の閉鎖となったり,郡代直属の 制勝組隊士の教育所と化したりする.

明治元年,松方正義着任とともに咸宜園を立て直したが,明治3年新政府の方針により, 日田県庁所属となった.

明治5年林外は上京して,正院修史局の御用掛かりとして勤務39才で病気の為死亡した .

著書に「林外詩稿,林外文稿,林外随筆」「入関録,異聞録,西遊紀行」「林外日記」24巻

林外の墓碑銘は撰,書とも長三洲

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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