中村西国(なかむらさいこく)

**「中村西国(なかむらさいこく)」俳人 **

正保四年(1647)生:通称庄兵衛,又は勝兵衛:松葉軒,落安舎と号した.

            ト幽とも号する.西国は俳号

            元禄八年(1695)六月六日没,49才 

            墓は財津町竜林寺裏の中村家墓地

            法名:大円ト幽鏡智

日田俳諧の開祖.豆田下町(現豆田町)の豪商,嶋屋久七の次男,生家は町年寄りを勤め ,久七は中村家初代,農林産物を扱う新興商人層の一人,寛文八年(1668)兄,伝右 衛門が家督を継いで比較的自由であった.

性格的にも大変器用で多芸多能であった.書は定家風,画は狩野派,華道,茶湯,をはじ め浄瑠璃,曲枕(枕を手で操る曲芸),彫刻,細工物に巧みで,舒竹(竹を平に伸ばして 細工するもの)等得意としていた. 

大坂,西山宗因の談林派で,井原西鶴に就き,延宝五年四月,西鶴より「俳諧之口伝」の 伝授を受け,俳句の点者としての独立の資格を得た.

延宝六年三月..「相腹中」を刊行,

   「胴骨」..西鶴,前川由平,西国の三人で各百句詠んだものを西鶴によって刊行

延宝七年..撰集「見花数寄(けんかずき)」「千本鑓」

延宝八年..「雲喰ひ」

貞享元年..「引導集」

元禄4,5年..紀行記「西海記」「江戸日記」をあらわしたが刊行していない.

独吟千句に対して西山宗因(梅花翁)がこれを認めて「西の国豊後にその名も西国という 聞こえた俳人,矢継ぎ早に千の秀句を放って世間に鳴り渡り...」と推賞の奥書きを贈 った.

天保二年(1682)梅村軒風黒撰の「俳諧高名集」では,全国66人の有名点者にかぞ えられている.

元禄4年(1691)西国は江戸に出て,出羽山形藩主,松平大和守直矩の赤坂溜池の邸 に滞在,直矩の口ききで大名俳人の俳諧の席に出入りした.元禄5年正月西国は直矩の屋 敷で剃髪して「ト幽」の号を賜る.尚,直矩は日田の領主として日田に赴任した事があっ たので,その関係で親しくなったのであろう.

日の出て あたまの霞 晴にけり

当時芭蕉率いる蕉門の正風の俳諧が台頭してきた頃で,芭庵松尾桃青に会いに行ったが, 会えなくて

はせを流れ 唯安きことなり

昼見れば ほたるも常の むしぞかし と詠んだ.

日田に帰った西国は,一子を肥後小国の兵庫屋奴留湯家(ぬるゆけ)に養子に出していた ので,日田と小国を行き来し,小国の奴留湯家で没した.

梅花翁の庵を尋ねて

ほととぎす これぞ和国の 飛び始め   西国

天地の間 短夜の月       梅翁

尚,日田俳壇と西国の関係は,はっきりとしないが,俳諧の先輩として後の朱拙らに影響 を与えたものと推測される.

参考文献:「日田の先哲」昭和59年3月発行:編集「日田の先哲」編集委員会

                      発行 日田市教育委員会

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