**広瀬 青邨(ひろせ せいそん)儒者 ** 通称幼時卯三郎,後に範治,名は範,字は世叔(せいしゅく),号は青邨 文世2年(1819)8月15日生,明治17年(1884)2月3日没66才 墓は,東京多摩墓地,日田中城町の長生園に分葬,諡を文通先生 青邨は豊前下毛郡奥坂村土田(現耶馬渓町)に矢野徳四郎の四男に生まれ,天保5年(1 834)16才で咸宜園に入門天保10年2月21才で都講になった.天保12年咸宜園 に戻る事を条件に,肥後の深水玄門に医学を学ぶ事を許された. 当時の咸宜園は旭荘が大坂にあり,林外はまだ幼少で淡窓は青邨を都講として適任と見込 んでいた. 天保14年青邨は咸宜園に戻り,同15年6月淡窓の義子となり広瀬を称する様になる. 文久2年青邨は塾政を27才の林外に譲り,府内藩に招かれ藩校「遊焉館(ゆうえんかん )」の教頭となる. 慶應4年の討幕戦争が起こった時当時の日田郡代窪田郡代は抗戦の構えを見せていたが, 青邨の説得により,これを断念して,肥後へ行った. 明治2年府内の仙禽舎(せんきんしゃ)にあった青邨は新政府の命により,京都学習院漢 学所へ(当時京都府大参事は松田道之(咸宜園出身)),松田と協力して明治2年京都に 小学校を64校開設した. 明治9年東京に出たが,修史局が廃止になると下野して,東京牛込神楽坂に「東宜園」を 開塾する. 明治10年東京華族学校が設立された時,創立に関与して,教授,監事に選ばれて,開校 ,名を「学習院」と称する事になった.このころ明治天皇に「論語」の進講をした. 明治13年宮内省文学御用掛を命ぜられる,又,川田剛,長三洲らと斯文学会を起こして その講師になった,三条実美,西園寺公望等もいた. 明治15年学習院を辞任して,山梨県甲府で病気療養をしながら,山梨県師範学校「徽典 館(きてんかん)の校長を努めた. 高臥スルハ六旬,温マタ飽 天恩ハ長ク 白頭ノ翁ニ及ブ 東京多摩の墓碑は三条実美の碑文,書は長三洲 青邨の長男貞文は濛田と号し,青邨没後日田に帰郷公立教英中学校長となり,明治18, 2−21,11迄咸宜園を再び開塾した,後衆議院議員,日田町長を努めた. 参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行 歴史上の人物の表紙に戻る。 |