千原 夕田(ちはらせきでん)

**千原 夕田(ちはらせきでん) 文人 **

通称幼時は幸次郎,のち太郎兵衛,藤右衛門,真古人.諱は鎮誠(しずあき) 字は明卿.号は夕田,放浪子(ほうろうし),自適斎(じてきさい)等

天保元年(1830)2月20日生,明治27年(1894)1月5日 没65才 墓は城町2丁目西光寺境内,法名,釈夕田

夕田は日田郡豆田町の豪商まる千,丸屋千原幸右衛門(鎮知(ちんち))の三男に生まれ た.

千原家は元筑後の名族蒲池氏の出で三井郡千原村に住んでいたが,近世の始め日田に来て ,城内村に居を構えた後次男が分家して豆田で醤油,酢,油等製造販売を営み次第に資本 を蓄積して大きくなっていった.当主は藤右衛門又は幸右衛門を名乗り,日田代官所の掛 屋及び小倉,森両藩の御用達を勤めている.

夕田は少年の頃,種次郎(華渓)とともに肥前鹿島出身の谷口藍田に読書指導を受け14 才で咸宜園に入門している.

20才前には父に代わって業務処理をしていたが,もともと風流を好み文久3年(186 3)33才で弟華渓に家督を譲った.翌元治元年慈眼山の東北の奥古城に隠居家を建てて 住み悠々自適の暮らしを始めた.

画は長崎の木下逸雲に学んで,特に蘭を得意とした.書も,長三洲や,柴秋村とも肩を並 べる能書家であった.

明治14年の東京現今文雅一監という番付に夕田は書の部で西の大関に位置された.この 時の東の大関が長三洲であった.

世間からは奇人よばわりされたが,一向に気にする気配もなかった.一方で,長三洲が捕 らわれた時,釈放運動に尽力したりした.

夕田は馬に興味を持ち,日田郡大山村の万万金(ままがね)に自費で馬数十頭を購入し, 牧場を設け,次第に大きくなったが明治維新の混乱で盗まれてしまった.

明治維新後松方正義は夕田の才能を評価して,県庁役人や,大蔵省等に登用しようとした が,夕田はこれを断り,各地を遊歴して交友を広げた.谷千城,野津鎮雄,道貫,橋本恒 如,大内勇蔵らとの交際があった.

晩年は日田の古城に住み{山隠居}と呼ばれて親しまれた.

夕田の弟幸右衛門は華渓と号し,夕田に経済的援助を続けた.又,その財力で書画骨董工 芸品の美術コレクションを行った.その数,質は相当なもので目録だけでも,1寸位の厚 さの本数冊に及んだ.

又,千原家の膨大な古文書は九州大学内の九州文化史研究所に収められている.

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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