釈 法海(しゃくほうかい)高僧

** 釈 法海(しゃくほうかい)高僧 **

字は月蔵.号を日南また橘洲.易行院と称す.

明和5年(1768)生.天保5年(1834)8月没67才

法海は長福寺宝月の次男に生まれた.幼い時肥後八代の光徳寺の養子になり長じてその寺 を継いだ.

法海は文芸学問に励み詩は特に巧みであった.24才の頃,筑前の亀井南冥に会ってその 才を誉められた,長福寺に帰省したときは,寅之助(淡窓)にも指導添削をした. 文化元年(1804)には本山東本願寺高倉学寮の寮司に,2年には擬講師文政11年( 1828)には講師(学頭)に選ばれて,易行院と名乗った.

法海は自分の後任には豊前下毛,正行寺の雲華院末広大含を推し就任させた. 大含は広円寺道寧の第三子円寧の子で法蘭の甥にあたる.

当時の京都大谷学派における権威は,宝月,宝海,大含と日田関係の学僧が占めていた. 宝海はたいへん謹厳でしかも雄弁であったと言う.

名声を得て,いささか放縦な生活をしていた頼山陽を諭したという逸話もある. 法海の詩は「聨壁詩稿(れんぺきしこう)」(草稿)に収められている.

法海辞世の歌

我死なば かねて出立つ 極楽へ 至りついたと 思へ皆人

歴史上の人物の表紙に戻る。