坂本 朱拙 俳人

**「坂本 朱拙」 俳人 **

明暦2年(1656)生,享保18年(1733)6月4日没 78才

墓地,不明.法名 逸翁半山居士

名は不詳,号ははじめ守節,後に朱拙と改めた.半山,(はんざん),四方郎(よもろ) ,四野人とも称する.

日田の俳諧の先達として中村西国がいたが,日田で同好の人々の指導的地位に立って日田 俳壇の形成に力を注いでいたのは坂本朱拙であった.蕉門の正風を奉じた最初の俳人で後 世への影響が大であった.

朱拙は日田城内村(現城町)に生まれた.生家は代々城内村にあって医を業としていた. 朱拙は若い頃は豊前小倉の小笠原藩内の儒学者として仕官を試みたが夢破れ,日田に帰っ て医師を継ぎ野に下って俳諧に志した.

当初談林風の句を作っていたが,正風に目覚め,松尾芭蕉を師と仰いで精進した.芭蕉と の文通はあったようであるが,結局は一度の面談の機会も持てなかった.

芭蕉没後の翌年(元禄8年(1695))に江戸に登って宝井其角を尋ね十月12日の芭 蕉追悼の句席に招じ入れられ,これを期に蕉門の高弟たちとの親交を得た.その後各地を 行脚修行を行い撰集の刊行や,刊行の序文などを書いて交友を広めた.

元禄10年..(1697)撰集「梅さくら」刊

元禄11年..撰集「後れはせ(馳せ)集」刊

元禄12年..「けふの昔」,「水仙畠」刊

その他彼の助力によって刊行された句集,撰集は数多い.

朱拙は元来筆まめで,又,九州第一の俳人としての実力,名声,それに誠実な人柄から, 朱拙を慕ってくる者が絶えなかったと思われる

. 元禄8年(1695)広瀬惟然,元禄11年.各務支考,同15年.志太野坡坡,享保元 年(1716)月空庵露川等著名な俳人が立ち寄っている.

後,子孫は玖珠に移り,いま朱拙の跡は残らない.

  我が願い 花四五反の 中の家

  陽炎の 土くさき身も 日暮哉   朱拙

参考文献:日田の先哲昭和59年3月刊 日田市教育委員会発行

     日田の先哲編集委員会 編集

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