浪曲師 二代目 桃中軒雲右衛門

** 「浪曲師 二代目 桃中軒雲右衛門 」**

明治29年豆田町一心橋のたもとの「永山」という簡易旅館の子として生まれた. 幼名は吉次郎,父親とは幼くして死別,母きさの女手一つで育てられた.

小さい頃から声が良く歌が上手でしかも美男子であった.従って事ある事に人前で歌って いた.小学校に上がる頃になると祭文(浪花節,浪曲)を語っていたと言う.

余りに浪曲がうまかったので,近所の者や,親類の者は,吉次郎を浪曲師にしようと考え ,本人もそう思っていた.しかし,母親はそんな不安定な職業を好まず.日田裁判所の給 仕として勤めさせる事にした.しばらく勤めていたが,浪曲師の夢が捨てきれず,母親も しぶしぶこれを許した.

丁度その頃浪花節は黄金時代を向かえていて,中でも初代桃中軒雲右衛門が有名で,九州 の博多に居を構えていた.親類の者達はどうせ弟子になるならこの桃中軒雲右衛門と決め ,博多に出向いたが「弟子は取らない」と追い帰されてしまった.

そこで親類の者達は相 談して「日田の住民がこぞって応援している様にすれば,いかなる雲右衛門も断らないだ ろうと考え,日田県知事や,町長,有志の署名,嘆願書を携えて,再度入門を乞いに行っ た所,弟子入りを許されたという.弟子入りが明治41−42年頃である.

ここでちょっと浪曲について書いておこう.

祭文:源は語部(かたりべ)に発し,藤原時代少納言,澄恵卿が朝廷の意を受けて,庶民 指導の目的で神道における祝詞の様な調子で平易な歌をいくつもつなぎ合わせた様な長い ものにし,辻説法の要領で諸国に広めた.これが大道祭文の始まりで,浪花節,浪曲と呼 ばれる様になった....「浪曲旅芸人」梅中軒鴬童著による.

初代桃中軒雲右衛門は大正5年11月7日44歳て゛東京目白の宮崎氏宅で逝去した.

当時雲右衛門にはたくさんの弟子がいたが,色々な問題,(例えば借金を相当抱えていた )があって跡継ぎ問題でも相当もめたらしい,しかし,芸風が初代に似ている事や,美男 で有る点で営業的等の理由で吉次郎が二代目桃中軒雲右衛門の跡目相続をする様になった .

吉次郎は24歳の時博多の売れっ子芸者でとびっきり美人のおはつと結婚をした. しかし,二代目桃中軒を名乗ってからは見入りが多く,おまけに美男ときているから,生 活が乱れ,おはつとも離婚,秋子と再婚...と色々あって北海道公演中に毒を盛られて 入院,快復後日田に戻って,おはつの元に侘びを入れ,世話になった.

桃中軒雲右衛門の十八番(おはこ)ネタは「義士伝」,「南部坂雪の別れ」,「安兵衛の 生い立ち」,「出鹿護送」,「神崎東下り」,「赤垣徳利の別れ」等である.

参考文献:1975年 当時淡窓図書館長 坂本武信著「二代目 桃中軒雲右衛門」より

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