広瀬 桃秋(ひろせ とうしゅう)俳人

** 広瀬 桃秋(ひろせ とうしゅう)俳人 **

通称,三郎右衛門.名は貞恒(さだつね).字は君亭.桃秋は俳号である.二世秋風庵,

又長春庵,二江亭,周山ともいう.

宝暦元年(1751)4月14日生,天保5年(1834)10月5日没 84才 墓は丸の内大超寺内,法名 歓誉浄喜.

桃秋は日田郡豆田魚町,博多屋三世広瀬久兵衛の次男に生まれた,つまり月化の弟である 明和元年(1764)桃秋14才の時,兄月化が代官所に出入りして,代官所に居る事が 多く,家業は桃秋に委ねられる事が多くなり,天明元年(1781)に月化が隠居すると 桃秋が家督を譲られて30才で第5世になる.

翌2年男児出生.名を寅之助という.後の広瀬淡窓である.寛政5年この頃が広瀬家にと って最も家計の苦しい時で,翌6年の冬には弟忠兵衛の破産の始末も降り懸かって来た. この時同僚以上に精励家の再興に務め,この働きが認められて,代官羽倉氏の知遇を得て ,寛政7年新たに鹿島,大村両藩の御用達に命じられた.

文化7年(1810)三河口太忠が代官となった時桃秋は家督を次男久兵衛に譲った. 桃秋は若い頃から自分は節制しても人に金品や,食べ物を施すのを楽しみとしていた. しかし多少せっかちな性格だったらしい.また向学心は旺盛であった.

桃秋が書籍の中で特に好んだのは小説類で自分でも数編を創作していて,「箒木(ははき ぎ)」15巻が残っている.

文政5年1月末,兄秋風庵が病没すると遺言により秋風庵二世を継ぐ. 天保元年(1830)80才の時秋風庵を門弟中村撫牛に与えて三世とし,自らは長春庵 と称した.

又桃秋は書家ではないが書もうまく,村童たちに手習いを教えたり,した.

桃秋の句:

雪霜に 常盤の標(ときわのしるし) 建つる也     長春庵横の月化の句碑の裏面

辞世の句:男子(おのこ)あまたありて 目出度(めでたく)往生遂(おうじょうとげ)

     はべる    棺かきのかたも 揃いぬ 田刈時

桃秋処世訓:一生の行事, 眼前の利得を貧らず,陰徳を行って子孫に残す」

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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