山田 常良(やまだつねよし)公益事業家

** 山田 常良(やまだつねよし)公益事業家

通称,作兵衛.諱は常良.号を子温,時中

寛政10年(1798)生,安政6年(1859)正月没 62才

墓は亀山町願正寺寺内.法名,祐常

常良は日田郡隈の田中町(現隈一丁目)に○京,京屋の初代山田小三郎経明(つねあき) の長男として生まれた.

山田家は延宝の頃(1673−1680)始祖又左衛門祐閑が京都から移って来て隈で商 家を営んだのに始まる.その三子半四郎が田中町に分家してやま京を称する初代となった が,この系統からすぐれた人物が輩出した.

やま京は代々半四郎を称し,三代目が常善,これから分かれて○京を創始したのが弟の小 三郎である.このほか山田家はやま一,やま上,かね上,かね又,やま田,やね京など多 くの家系に分かれ,常良も○玉を起こした.

やま京の山田家を大きくして発展の基礎を築いたのは二代祐信である.その子で三代の常 善は塩谷郡代から三老の一人に挙げられた山田恕平であり,京の飛鳥井家から認可を受け るほどの蹴鞠の名手でもあった.

その次男常澄みは四代半四郎を継ぎ掛屋,御用達を勤め,文政元年隈町年寄を命ぜられた .小ケ瀬井手の工事にも最高額の寄付をし,また隈川の通船事業でも中心となり,隈町用 水溝,陰徳倉,孝経碑等に尽力している.

常善の弟小三郎経明は父兄を助けて家業を手伝い,後に○京を起こした,ひの商才は日田 一といわれた.この父の子として常良は家業を学びながら育った.19才の時仏門に入ろ うと家を出たが家族,親族の反対に断念,この頃隈,竹田に大火が起こって,父の家も焼 失した.

常良は家督を弟に譲って小三郎を継がせ,自分は外に出て,○京再建に尽力した.再建が なると独立して,自ら荷物を背負って行商して,○玉を興し御用達に命じられる程になっ た.人之為や,公共の為に尽くす事を最大の楽しみとしていたので,自分の生活は質素で 倹約していたが,これと思う時は大金を投じた.

常良は数々の公共事業に寄与しているが,著名な物は伏木峠の石坂の改修や,加加鶴新道 の石畳整備や,小ケ瀬井手の維持之為の基金拠出などである.

常良は商人としても,教養人としても,社会人としても一流であった.

精細は樋口安左絵門,草野宗内,を参照

参考文献:日田の先哲:日田市教育委員会発行

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