小迫辻原遺跡

★★★ 小迫辻原遺跡(おざこつじばる)「日田市小迫町(おざこまち)」 ★★★

** 調査に至る経過 **

遺跡の存在するこの辻原台地は,昭和30年代後半より市内北部の台地を対象とした大 規模な農業基盤整備事業が行われ,現在その大半が畑地として利用されている。

その後,昭和61年,62年度の2ケ年にわたり畑作地約50万mmを対象とした地力 増進事業が計画され,この遺跡の1部もその対象とされていたが事前協議がなされない まま事業が実施された。

またこの事業と時を同じくして九州横断自動車道建設に伴う発掘調査が県教育委員会に より進められていて,昭和62年度には古墳時代前期の2基の環壕居館跡が小迫辻原遺 跡で発見される等遺跡が重要視された。

このため市教委は市農政課と緊急の協議を行い,昭和62年度地力増進事業実施分につ いての分布調査を実施し,調査の必要性のある地区には試掘調査を実施した。

その結果,当遺跡内で実施予定の2ケ所については,発掘調査終了後に事業を実施する よう市農政課に指示し,土地所有者の了解も得られたため,本年度より発掘調査を実施 した

。 ** 調査の概要 **

今年度調査区は台地西側にあたる便宜的にN区と呼んでいる地域内である。 調査は昨年度県教育委員会が道を挟んだ東側の畑地を試掘調査し遺構を検出している為 遺構の広がりが今回の調査区まで及ぶものと判断し,試掘調査を実施せず本調査とした。

調査では土盛りの関係上2回にわたって表土剥ぎを行い,竪穴式住居跡7基,溝1条, 土壙46基,堀立柱建物3棟,中世墓4基,柱穴多数を検出したが,調査区北側の黒 塗り遺構及び撹乱については昨年後半からの悪天候により未掘とした。

以下各遺構の概略を記す。

1)** 1号溝 **

調査区を東西に横切る大溝で,検出当初はその埋土が黒色を呈し青磁碗片を含む事から 中世期の所産と考えた。溝の東側は撹乱を受けていたため確認が難しかったが,掘り下 げを行った結果,土器が帯状に認められたことよりこの溝がさらに東側へのびる事を確 認した。西側は撹乱の為,確認できなかった。

 溝は東側よりわずかに南へ湾曲しながら約32m西へのび,その後南へ7m屈曲し, さらに西へ8m程度屈曲する。全長は約48mで上面での幅は屈曲部で3−3,5m 直線部で2.3−3.5mを測る。溝の断面は屈曲部で「V]字形をなしね底の幅は2 0m前後で深さ1.5m程である。

この「V]字断面は屈曲部と屈曲部から東へ約10mまでの間にみられ,それより東に いくにつれて溝の底は広がりをみせる。このため,断面は溝の東側では[U]字状をな し,底の幅は1m程になる。

溝屈曲部の南側斜面にはこの溝に伴う2個のピットを確認した。径は30cm前後を測 り,やや南に向かって堀込まれており深さ約70cm程を測る。ピット間は3m程であ る。溝の東側においてもピット1個を確認したが,この溝に伴うものか判断できない。

溝の埋没状況は大きく上.中.下の3層に区別できる。下層はその埋土に黒味はなく, 地山土に近い色調をなす。中層は茶色をなし,地山土をプロック状に含む。上層は黒色 をなす腐植土である。

下層は溝の使用中における自然の流れ込み,中層は土器を多数含むことから溝使用中か ら使用後にかけての堆積土,上層はさらにその後の堆積土と考えられる。

遺物は溝内の中層に帯状に長く出土したが,屈曲部についてはその量は他に比べ少ない 遺物の大半は土器で石斧が数点出土した。また,数ケ所で炭化した炭の固まりが認めら れたが焼土はみられなかった。

なお遺物の取り上げのため,土層観察ベルト間を便宜的にA−Fと区分した。 溝内から出土した土器から溝の時期については,弥生時代後期後半の土器も認められる が,古墳時代前期と考えられそうである。土器の整理が進んでいないため,詳細は今後 検討を要する。

2) ** 竪穴式住居跡 **

調査区内で7基の住居跡を確認した。当初は39号土壙付近で竪穴式住居跡の壁周溝と 思われる小溝を検出したが,その残りが浅く調査途中で確認不可能となり,さらに主柱 穴と思われる柱穴も存在しないことより欠番とした。(仮6号住)

1号住は西側で2号住を切るが東側付近で溝により切られている。このため全体の規模 は不明。残りは悪く,検出面から床面までは10cm前後しかない。主柱穴は2本しか 確認できなかった。住居跡北側にはカマドが壁面の外側へ約20cm突出して付設され ている。住居内には土壙が存在するが,これは弥生時代中期のものである。住居内から 須恵器が出土していないため時期は明確に判断できないが6世紀以降の所産であろう。

2号住も1号住同様残りが悪い。北西コ−ナ−で土壙と切り合うが,先後関係は不明。 2本柱の住居跡と考えられるが,壁周溝等は確認出来なかった。弥生時代後期前半代の 所産と考えられる。

3号住は南側に一部拡張し,その約半分を調査した。主柱穴は2本確認し,その中間に 焼土混じりの土壙が存在する。4本柱と推定される。また,住居内東側を2号中世墓が 切する。古墳時代前記の所産と考えられる。

4号住は1辺5.2mの正方形プランで,北西コ−ナ−は土壙を切る。4本柱で,壁の 全周に壁周溝が認められる。また,住居跡の中心部には炉跡と考えられる炭混じりの焼 土壙が残る。貼り床は確認出来なかった。時期は弥生時代後期後半から古墳時代初めで ある。

5号住は1辺3.1mx3.7mの隅丸方形をなしている。南西壁面の中央には三角形 に近い土壙があり,この土壙を除く周囲には壁周溝が巡る。また中央には土壙が存在す る。この住居内には,主柱穴がなく,住居跡と考えるよりは別の施設として促えた方が よいのかもしれない。古墳時代前期の所産と考えられる。

7号住は内部に5本の柱穴を検出したが,主柱穴として考えるにはいずれも浅い。壁周 溝,貼り床は確認できなかった。住居内に不定形の土壙が存在するが,これは住居跡が 切った弥生時代の土壙である。住居跡の時期は古墳時代前期と考えられる。

8号住は壁面及び床面が削平され,柱穴だけ残ったものと考えられる。 各住居跡とも遺物の残りは良くない。

3)** 土壙  **

竪穴住居跡内の

これに伴わないものを含めると46基確認したが不整形で土器を福間な いものもある。 11号土壙は平面プランが円形をなし径1mを測る。弥生時代中期初めの所産である。 12号土壙は長さが東西5.2m,幅80cmと東西に長い。このタイプの土壙は,県 教委調査のC区でも確認されている。弥生時代前期後半頃の所産。

土壙の大半は弥生時代に含まれる。が43号土壙は古墳時代前期の所産と考えられる。

4)** 小児用甕棺墓 **

4基確認したがいずれも残りはよくない。1,2号墓とも合口で,1号墓は上甕の大半 が失われている。時期は弥生時代中期後半の所産と考えられる。 3,4号墓は底部しか残っていない

5)** 堀立柱建物 ** 

確実に判断できるのは3棟である。1,3号堀立とも2間x2間でともに土色より中世期 までは下らない。2号堀立は中世期の所産である。

6)** 中世墓 **

1号墓は東西178cm,南北84cmの長方形を呈す。時期は不明。 2号墓は南北180cm,東西90cmの土壙内に木棺に使用された鉄釘が確認された 。鉄釘より木棺は南北140cm,東西50cm前後と推定され,土師器の出土状況か ら北枕と考えられる。また土壙内に50個をこす河原石が認められる。12−13世紀 頃が考えられる。

3号墓は南北215cm,東西110cmの土壙内に2号墓同様の鉄釘が確認された。 鉄釘から南北150cm,東西70cm前後の木棺が推定される。土師器のほかに, 副葬品として短刀が出土した。12−13世紀頃が考えられる。

4号墓はほぼ1m四方の隅丸方形をなす。土壙内からは土師器,鉄釘が出土している。 12−13世紀頃か。

★★★ まとめ ★★★

以上,簡単に概略を記したが,今回の調査で注目される1号溝に継いて少々触れてみた い。

辻原台地西側中央部で発見されたこの溝は,調査以内で屈曲部を含めて約48mの長さ を有する。溝の西側は畑地開墾の為台地の縁辺部が大きく削平,撹乱を受けており,今 後その行方を確認する事は不可能である。

しかし,推定では屈曲部が1つ出っぱりあるいは引っ込みとなり,台地縁辺部まで続い ていたものと考える。また,溝の東側については上部が撹乱を受けているものの,溝底 から明らかに東側に続く事は間違いない。 このことから,1号溝は全長で80m以上 の長さになろう。

溝の上面幅については,この土地が畑地耕作上調査区内の41号土壙付近を高くし扇状 に低くなるように畑地を削平している事から,溝の東側は屈曲部付近に比べ広かったと 考えられる。このことは,屈曲部付近の断面が「V]字状を呈して傾斜が鋭くなってい るのに対し,溝の東側の断面が[U」字状というよりはむしろ逆台形に近い形で傾斜も 屈曲部より僅かに緩やかであったと考えられよう。

溝屈曲部の南側斜に2本のピットが認められる。このピット内部の土質が溝内の中層( 茶色)である事から,この溝が埋没する依然のものと判る。 さらには,他の柱穴の深 と比較しても,また近くにこの深さを有する柱穴が存在しないことを考えると溝を掘削 した際に堀込まれたとみて間違いない。

溝の断面が屈曲部で「V]字形をなすのに対して,屈曲部から離れると[U]字形(逆 台形)に辺かする事を考え合わせると,この屈曲部は何らかの意図のもとに作られた事 を意味している。

次に溝の埋没状況であるが,先の断面観察による上−下層のうち,中層においては北側 より埋土が流れ込んだ状況が認められる。

この層はさらに数枚に細分され,北側から流れ込んだ土層中に地山土がブロック状に入 り込んでいる。この状況が特にはっきり判るのが,溝内の土器を取り上げるのに便宜的 にDとした場所である。

この付近の地山はレキ層で,その下層には砂層が帯状に何枚も重なっている。このため であろうか,中層の北側斜面にはレキや砂が混じって流れ込んでいる。

また,この状況は土器の出土状況からも伺える。こうした事から判断すると,溝掘削時 の溝内の土が北側に置かれ,土塁を築いた可能性を示唆している。

 溝の名がからはほぼ全面にわたって土器が出土しているが,その出土分布も屈曲部付 近では直線部に比べ少なく,先程の屈曲部の意味を考える上での参考となろう。

これらの土器は,器種構成やその比率等今後資料整理を待たなければならないが,日常 容器の量が多そうである。

以上のように みてみるとこの1号溝は,溝の近くに同時期の竪穴式住居跡が存在した り,溝の中に多量の土器が出土し集落と関わりを持っていた事など,さらには溝の屈曲 部が何らかの施設として意味合いを持つ事などから,環濠集落の環濠の一部である可能 性が十分考えられる。

また,拡大解釈すれば,同じ台地上に近接する2基の環濠居館跡と同様の環濠居館とも 考えられるが,近接する2基の環濠居館跡の在り方や内部施設等の点で異なる所も多く ,即断はできない。

限られた調査面積の中での部分的な検出と言う事もあり,溝の性格等はここでは判断す る事は出来ず,この問題については溝の東側へののびる方向に依るところが大きく,溝 の行方如何でその性格が位置づけられ,溝の屈曲部の役割等について再度検討する必要 があろう。 幸いにも,次粘土に東側の畑地を調査予定しているので,問題解決の糸口 が得られる事を期待したい。

いずれにせよ,この1濠溝は2基の環濠居館跡と近接する事から,また,時期的にも近 い事から何らかの関係があった”もの”の一部であった可能性が十分考えられる。

なお最後に,当遺跡では試掘調査や発掘調査が今年度実施分も含めると10ケ所を数え る。また,これらの調査区は,今後調査の増加が予想され調査担当斜間で混乱を避ける 意味で,台地の畑地区画に合わせて便宜的にA−R区(A−F区は九州横断自動車道 関係調査分)と分けている。

遺跡の調査や報告が増えていることより,以下にこれまでの報告と位置をまとめておく 。但し,遺跡名については,1988年以降,それまで使用していた「小迫原遺跡」 から「小迫辻原遺跡」と変更を行っている。

1)大分県教育委員会.日本道路公団「九州横断自動車道路建設に伴う発掘調査概報」

                  日田地区−1986年(A.B)区

2)   同上          「九州横断自動車道路建設に伴う調査概報」−

                  日田地区−1987年(A−C)区  

3)   同上     「九州横断自動車道(日田地区)建設に伴う発掘調査概報」

           V1988年(D−F.P)区

4)大分県教育委員会「大分県内遺跡詳細分布調査概報」7 1988年 (O)区

5)日田市教育委員会「日田地区遺跡群発掘調査概報」3  1988年 (L)区

6)大分県教育委員会「大分県内遺跡詳細分布調査概報」8 1989年刊行予定(R)区

      資料提供:日田市立博物館:日田地区遺跡群発掘調査概報4

              1989年日田市教育委員会

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