まとめ

Vまとめ

1。集落について

調査の結果、竪穴住居跡12軒・堀市柱建物数棟・土坑5基・往穴などが検出された。
このうち竪穴住居跡からは時期の特定可能な甕、高坏などの遺物が出土しており、
大きく6期に区分することができる。ただし、2号、11号住居跡が時期が特定
できないほか、9号住居跡からは遺物が出上していないためここでは時期区分から
外すこととする。

1期は8号住居跡が該当する。図化レていないが壷の破片で刻み目突帯を有する胴部
が出土しており、弥生時代後期前半におくことができる。また同住居跡出土の須恵器
の土不身は遺構検出中に発見されたもので流れ込みの遺物である。

2期は1号および4号住居跡が該当する。1号住居跡出土の謹(第4図2)は外面
ハケ、内面へラケズリの特徴を持つ布留式系の土器である。また、4号住居跡出土の
高坏(第10図2)は体部が直線的に伸びる特徴から井上編年の古墳時代1式に相当
し、同住居跡から出土し図化できなかったものに薄手で外面タタキ、内面ヘラケズリ
の特徴を持つ庄内式系の甕の破片が出土しているがこれらは同型式の範疇で捉えられる
。以上の点から1号、4号住居跡の時期を古墳時代前期初頭におくことができる。

ところで、この時期の住居跡の形態は、4本柱の方形プランが一般的とされている。
ところが本遺跡の1号、4号住居跡は2本柱で長方形プランを呈することから時期的
な問題を踏まえて今後検討を要する。また、1号住居跡出土の高坏(第4図4)には
脚下端部の対面に2対の透かしを有していた。県内では出土例がなく、今回時間的な
制約もあり類例を求めることができなかったが今後の課題としたい。

3期は5号住居跡が該当する。屋内土坑から出土した高坏(第11図2)は特徴から
福岡県吉井町塚堂遺跡のW期に相当し、古墳時代前期の時期にあたる。

4期は6号住居跡が該当する。本住居跡では南西角に造り付けカマドを設けている
のが確認された。ところで、住居跡の角にカマドを有するものは市内では求来里
平島遺跡、尾漕遺跡A地区で例があるものの県内では珍しい例である。本遺跡同様、
求来里平島遺跡では須恵器は出土しておらず当該時期の遺構と思われ、本地域における
カマド出現期を考えるうえで重要である。

5期は7号住居跡が該当する。出上した甕から古墳時代後期頃にあたる。また、近隣
の8号住居跡からは7号住居跡と同時期と見られる須恵器の坏身が出土している。
この遺物に関しては7号住からの流れ込みの可能性が考えられる。なぜなら、7号
住居跡の周辺にこの時期の遺構、遺物が発見されていないからである。

6期は3号住居跡が該当する。調査区の南西に位置し他の時期の遣構とは空間を隔て
たところにある。3号住居跡は、出土した須恵器蓋や高台付の坏から8世紀中頃が与
えられる。この点からは当該時期に周辺がどのような状況を呈していたかは不明である
が、小支谷に面した奥まったところに立地していることは何らかの意味を持っていた
と考えることができよう。

遺跡の中心的な時期は、古墳時代前期で1号、4号住居跡(4世紀初め)から5号住居
跡(4世紀後半頃)に移っていったと考えられる。以下、4期は6号住居跡を古墳時代
中期におき5期は古墳時代後期頃に該当するとし、6期は3号住居跡より奈良時代
(8世紀中頃)に比定できるものである。

以上の点から言えることは、これまで盆地内での集落の移り変わりを見るとき弥生時代
において拠点的な集落が台地上に形成され、その後古墳時代に入ると台地をおりて
居住域が移っていくという過程があるなかで本遣跡においては小規模ながら逆の現象
が見られるということである。

<<参考文献>>

(報告書)

馬田弘稔『塚堂遣跡W』一般国道210号線浮羽バイパス関係埋蔵文化財調査
 報告書第4集1985

「塚堂遺跡T』福岡県教育委員会1984

小林義彦『唐原遺跡I一集落吐一』福岡市埋蔵文化財調査報告書第207集1989

後藤一重『上野遺跡』豊後高田市文化財調査報告書第1集豊後高田市教育委員会1990

田中裕介『日田市高瀬遺跡群の調査1』大分県教育委員会1995

村上久和『原田遺跡ほか』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(4)1995

友岡信彦『日田条里ほか』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(5)1997

(論文/研究会資料)

井上裕弘「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』

児嶋隆人先生喜寿記念論集1991

田中裕介「日田盆地三隈川南岸の考古学からみた開発史」大分県地方史第154号1994

第32回埋蔵文化財研究集会『古墳時代の竈を考える』第1〜3分冊1992

遺跡発掘の表紙へ戻る。