おわりに

おわりに

今回の調査の結果、口が原遺跡は集落遺跡であることがわかったが決して拠点的な集落
とは言えない。しかしながら、弥生時代後期〜古墳時代初頭にかけての盆地北部に
おける拠点的な集落である小迫辻原遺跡とほぼ同時期の遺構の発見があったことで
当該時期の盆地全体の様相を考える上で貴重な資料であると思われる。特に、外来系
の甕を出土した1号および4号住居跡の位置づけは重要であると考え、三隈川を挟んだ
南北の台地で外来系の土器の流入する時期に先に述べたような同様の居住形態を見る
ことができた事実は今後この時期を理解して行くうえでの指針となろう。

また、6号住居跡のように住居跡の角に設けられたカマドは「類竃」とも称され、
これまで畿内、北部九州などで検出されている。同様な例は、福岡県塚堂遺跡のほか、
市内の求来里平島遣跡や尾漕遺跡で確認されているが県内ではまれである。

一つの時期幅が想定できるとともにカマド構造の発展形態を知る上で重要であると考え
られる。以上の発見例は、5世紀中頃〜6世紀代に及ぶことがわかっている。

カマド出現期の構造を理解するうえで資料性を十分に含んでおり今後の調査例が
待たれる。また、5号土坑の間題はこれから発見例が増えることで明らかとなる部分
が多いと思われる。この地域の歴史を解明するうえで口が原遺跡の果たす役割は大きい
と考えるが、特に立地の点で台地上において弥生時代後期から古墳時代後期まで小規模
ながらも継続して人々が生活していたことは今後再検討する余地があるように思う。

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