口が原遺跡

     大分県日田市埋蔵物文化財調査報告書第17集

             1998年

            日田市教育委員会

             序   文

一昨年、大分自動車道の全面開通により日田は九州の中心地として物
流の面からも大変重要視されている次第であります。また、恵まれた自
然環境にあることから、この度サッポロビール新九州工場が当地に進出
することになりました。

日田盆地では、台地上の至るところに多くの遺跡を有しており今回の
工場予定地におきましても弥生時代〜近世にかげての遺構・遺物の発見
と共に多くの成果を得ることができました。

本書が文化財理解の一助となり広く活用いただげれば辛甚です。最後
になりましたが、調査にご協力いただいた関係各位、調査に当たってご
指導ご助言をいただいた諸先生方に厚くお礼を中し上げます。

         平成10年3月31日

        日田市教育委員会教育長 加藤正俊

               例   言

1。本書は、日田市教育委員会が日田市土地開発公社から委託されて発掘調査
  を実施した、口が原遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書である。

2。調査にあたっては、日田市土地開発公社、目田市企業立地推進室及び地元
  の全面的な協力をいただいた。

3。遺構実測は調査者全員が行い、浄書は吉田博嗣が行った。また、遺物の実
  測と浄書は行時志郎、吉田、松竹智之(別府大学学生)が行った。

4。本書の執筆、編集は吉田が行った。

5。航空写真は九州航空に委託し撮影したもので、遺物の写真については文化
  財写真家長谷川正美氏による撮影である。

6。出土遺物、遺構、遺物の図面および写真等は、日田市埋蔵文化財セソター
  にて保管している。

7。調査中および本書を作成するにあたり、下記の方々に多大なご教示、ご協
  力をいただいた。記して感謝を申し上げます。

      後藤宗俊(別府大学教授)、渋谷忠章、高橋徹、村上久和、
      西哲弘、小林昭彦、田中裕介(大分県教育委員会文化課)、
      原田昭一(大分県宇佐風土記の丘資料館)
       (敬称略)

         本文目次
T調査の経過

1。調査に至る経過
2。発掘調査の経過
3。調査組織
4。歴史・地理的環境

U口が原遺跡の調査

1。竪穴住居跡
2。掘立柱建物
3。土坑
4。その他の遺物

Vまとめ

         挿図目次

第1図   調査区位置図
第2図   口が原遺跡周辺遺跡分布図
第3図   1号住居跡実測図
第4図   1号住屠跡出土遺物実測図
第5図   2号住居跡出土遺物実測図
第6図   2号住居跡実測図
第7図   3号住居跡実測図
第8図   3号住居跡出土遺物実測図
第9図   4号住居跡実測図
第10図  4号住居跡出土遺物実測図
第11図  5号住屠跡出土遺物実測図
第12図  5号住居跡実測図
第13図  6号住居跡実測図
第14図  6号住居跡カマド実測図
第15図  6号住居跡出土遺物実測図
第16図  7号住居跡実測図
第17図  7号住居跡カマド実測図
第18図  7号住居跡出土遺物実測図
第19図  8号住居跡出土遺物実測図
第20図  8号住屠跡実測図
第21図  9号住居跡実測図
第22図  10号住居跡実測図
第23図  10号住居跡出土遺物実測図
第24図  1!号住居跡実測図
第25図  12号住居跡実測図
第26図  12号住居跡出土遺物実測図
第27図  1号掘立柱建物
第28図  1号土坑実測図
第29図  2号土坑実測図
第30図  3号土坑実測図
第31図  4号土坑実測図
第32図  1号土坑出土遺物実測図
第33図  3号土坑出土遺物実測図
第34図  5号土坑実測図24
第35図  その他の遺物実測図  (土器)
第36図  その他の遺物実測図  (石器)
第37図  口が原遺跡集落概観図

         図版目次

巻頭図版  口が原遺跡全景
図版1   口が原遺跡遠景(庁舎より望む)
図版2   1号住居跡2号住居跡3号住居跡
図版3   4号住居跡5号住居跡5号住居跡屋内土坑遺物出土状況
図版4   6号住居跡6号住居跡カマド支脚7号住居跡
図版5   8号住居跡9号住居跡10号住居跡
図版6   1号住居跡5号土坑5号土坑土層断面
図版7   1号掘立柱建物1号土坑
図版8   1号住居跡出土遺物3号住居跡出土遺物皇号住居跡出土遺物
図版9   5〜8号 住居跡出土遺物10号住居跡出土遺物12号住居跡出土遺物
図版10  12号住居跡出土遺物
図版11    その他の遺物

        付図目次

付図1  口が原遺跡遺構配置図  (第2図のあとに挿入)

T調査の経過

1。調査に至る経過

本遺跡は日田市におげるサッポロビール叶V九州工場の進出に伴う工場用地取得造成
事業に先立つ事前調査として実施された。

当初、工場予定地は三隈川南岸の上野台地が有力な侯補地とされ、当地区は日田市でも
有数の遺跡密集地であるため相当な数の遺構・遺物の出土が予想されていたが、その後
計画の変更が行われ、より東側の高瀬地区に移るはこびとなった。

今回調査を実施した高瀬地区については、市経済部企業立地推進室より上記の内容に
伴う埋蔵文化財の有無の確認に関する照会文が提出され、これを受げて市教育委員会
では当該事業予定地が遺跡である可能性を十分に含んでいたため、同事業予定地
(全体面積約154,000u)のうち約10,000uを対象とした試掘調査を
行った。

試掘調査は、山林部を多く有していたため約100ヵ所のトレンチを設定して平成
8年12月9日から平成9年1月30目まで人力による調査を行った。

この結果、トレンチにおいて竪穴住居跡、土坑、柱穴などの遣構が確認されるととも
に多くの遺物が出土した。

このため企業立地推進室とその取り扱いについての協議を行い、事業予定地のうち
9,000uを対象とした発掘調査を実施することとした。

調査期間は、平成9年2月から約2ヶ月間とし、その後出土遺物の整理を行うととも
に平成9年度中に報告書作成を含めた全ての工程を終了することとなった。

2。発掘調査の経過

発掘調査は試掘調査の結果をもとに協議で決まった区域を対象に実施することとした。
詞査は平成9年2月10日から始まり、まずバック・ホーによる表土除去作業を南側
斜面から行った。特に遺構の発見はなく、わずかに黒曜石の破片が出土しただげで
あったが、念のため南側斜面にはグリッドを設定し掘り下げた結果、遺溝・遺物の
発見には至らなかった。

その後、斜面がゆるやかに傾斜し始める位置で最初の竪穴住居跡が検出された。
調査前は畠地として耕作されていたため、北側が大きく削平を受げているようである。
調査区中央はコンターが安定しており、遺構が確認できる場所のなかで最も高い位置
にある。周辺から検出された遺構は、比較的遺存状況もよかった。

また、遺構の密集度は中央付近に高い状態を示しており、特に西側には柱穴が集中して
いた。

調査が北側に移ってからは東西で竪穴住居跡が検出されたが、西側の状況に対して
東側ではひとつのまとまりをみることができた。以上、遺跡全体の遺構検出の数は
決して多くはないがその反面、局辺台地との比較から過疎地であることの間題点を
考えるべきである。

調査終盤の4月に入り雨の多い日が続いていたが空中写真撮影も雨のなか行われ、
ほぼ予定通りの4月23日をもって調査は終了した。また、出土遺物の整理作業は
平成9年2月12日〜同年6月30日まで行った。

3。調査組織

各年度の調査におげる組織は次のとおりである。なお、職名は当時のままとする。

(平成8年度)

調査主体/     日田市教育委員会

調査責任者/    加藤正俊(日田市教育委員会教育長)

調査事務/     原田俊隆(日田市教育委員会文化課課長)
          長尾幸夫(同文化課課長補佐兼文化財係長)
          森山一宏(同文化課主任)
          竹原里香(同文化課臨時職員)

調査員/      土居和幸(同文化課主任)
          森山敬一郎(同文化課嘱託)

作業員(発掘)   梶原みとし、小野忠臣、野村勉、坂本都美子、坂本今朝人、
          梶原サツ子、梶原秋生横尾テル子、渡辺芳五郎、益永勇、
          梅木鈴子、園田義雄、穐本文雄、宇野ヒトエ
          木下カネ、宇野京子、横尾ノブ子、刎留造、安心院司、寺口整、
          宇野カスミ、高野瞳、横尾フサエ、加藤キヨ子、宇野アサエ、
          毛利泰雄、宮崎正勝、穴井和馬、毛利十四男、河津基、
          松竹智之、園田大、下隈久司、池田智之、荒木邦彦、
          和田徹二郎、矢幡芳樹

(平成9年度)

調査主体/     日田市教育委員会

調査責任者/    加藤正俊(日田市教育委員会教育長)

調査事務/     原田俊隆(日田市教育委員会文化課課長)
          長尾幸夫(同文化課課長補佐兼文化財係長)
          森山一宏(同文化課主任)
          竹原里香(同文化課臨時職員)

調査員/      土居和幸(同文化課主任)
          吉田博嗣(同文化課主事)
          永田裕久(同文化課主事補)

作業員(発掘)   平成8年度に同じ
   (整理)   和田ケイ子、聖川陽子、伊藤弘子、羽野恭子、田中静香、
          小埜和美、松本佳織、黒木千鶴子、川原君子、河原直美

4。歴史・地理的環境

日田市は大分県西部にあり、九州全体から見た場合ほぼ中央に位置する。
三隈川などの河川が集中する沖積地の周辺には河岸段丘や「原(はる)」と呼ばれる
台地が広がり、日田盆地の地形を特徴づげる。遺跡の多くはその場所に立地している。

三隈川南岸は、長者原台地からなる石井地区、銭渕・高瀬段丘とその背後の陣ヶ原台地
からなる高瀬地区、三隈川と大山川に挟まれた半島状の台地である大部地区の大きく
3つに分けることができる。

台地はいずれも沖積地との比高差約30mほどで標高は130m台である。
しかしながら、今回調査した口が原遺跡は高瀬地区にあたり標高155m前後と他の
台地より一段高い位置にあるため、それらの台地上で確認されている遺跡と比較した
場合どのような様相を示しているのか注目するところであった。

この三隈川南岸には日田盆地全体の遺跡立地と共通する多くの遺跡がある。
(第2図)台地上には旧石器・縄文時代の遺跡が点々と残されており、長者原遺跡
(49)では縄文早期、上野第1遺跡(43)では縄文晩期の遺跡を確認している。
口が原遺跡の眼下に通っている国道210号バイパス建設時の調査では手崎遺跡に
おいて縄文早前後晩期の遺物・遺構が確認され、大部遺跡でも縄文早晩期の遺物が
確認されている。

また長者原と陣ヶ原台地の縁辺部には弥生時代の集落が広がっている。

古墳時代になると集落の中心は台地を下って、石井沖積地や高瀬段丘に移動するよう
で、高瀬地区では高瀬遺跡(40)と手崎遺跡で竪穴住居跡が曜認されている。
台地縁辺部は古墳時代には墓地として利用されていたらしく、護願寺古墳群(
44〜46)、穴観音古墳(48)などが台地上に立地する。

また、沖積地にはガラソドヤ古墳群(51〜53)、高瀬段丘上には姫塚古墳
(41)、桃山台地には千人塚古墳(33,34)が存在しており、律令国家によって
石井郷として設定されるまとまりが以上の古墳群の存在によって示される。

奈良時代(8世紀)には、石井駅が郷内におかれていたとされるが、この時代の遺構
としては上野第1遺跡や高瀬段丘上の条里遺構、手崎遺跡(36)が知られている。

『上野第1遺跡』(一般国道210号日田バイパス建設に伴う埋蔵文化財発掘調査
  概要)大分県教育委員会1991

『手崎遣跡・大部遣跡』(同上)大分県教育委員会1992
『(日田市高瀬遣跡群の調査1)誠和神社裏遺跡・後藤家墓地・陣ヶ原辻原遣跡
 ・高瀬深ノ田遺跡』大分県教育委員会1995

千田昇「日田・玖珠地域の地形」『日田・玖珠地域一自然・杜会・教育』
  大分大学教育学部1992

田中裕介「日田盆地三隈川南岸の考古学からみた開発史」『大分県地方史』154
   大分県地方史研究会1994

第3章 口が原遺跡発掘調査の概要

1。竪穴住居跡

今回の調査では12軒の竪穴住居跡が検出された。

§1号住居跡(第3図)
調査区南側の緩斜面に位置している。住居跡は方形ブラソを呈しており、規模は
2.00m×4.50m、最大深25pで北側は削平を受げていた。主柱穴は2本で
わずかに東側に偏って設けられている。

主柱穴の軸上西側に並列する屋内土坑が検出され、土坑内には2個体分の高坏のほか
甕などが出土した。住居跡中央には、焼土および炭化物が散面していた。

§1号住居跡出土遺物(第4図)

1は甕の胴部で内外面とも淡褐色を呈している。外面は調整は不明で、内面胴部上半
より頚部にかげてケズリ調整が残っている。遺存高は10.Opを測る。

2は甕で外面は褐色・内面は淡褐色を呈している。調整は外面がハケ、内面はケズリ
を施している。遺存高は16.5pを測る。

3は甕の底部で丸底である。色調は黄褐色を呈している。遺存高は4.0pを測る。

4は高坏の脚部である。色調は淡黄褐色を呈し、胎土は角閃石、石英、白色粒を含む。
調整は不明である。下半部4ヵ所の透かしを設げているが、対角の位置より少しズレ
ている。遺存高は9.8pを測る。

5は高坏の脚部である。色調は黄褐色を呈し、胎上は角閃石、白色粒、茶色粒を含む。
遺存高は7.8pを測る。

6は高坏の坏部である。色調は置色を呈し、胎土は角閃石、白色粒を含む。復元口径
は17.Op、遺存高は5.7pを測る。

§2号住居跡(第6図)

1号柱の西側に位置している。平面ブラソは長方形で全体が大きく削平を受けている。
規模は検出時で4.20mx2.75m、深さはわずかに10pを測るのみである。
中央に炉跡が検出されたが、柱穴を確認することはできなかった。出土遺物は、甕の
破片が多く出土したが図化できなかった。

§2号住居跡出土遺物(第5図)

台付甕の底部である。内外面とも淡黄褐色を呈している。胎土は角閃石、茶色粒を含む
。遺存高は4.5pを測る。

§3号住居跡(第7図)

調査区西側の谷斜面に面した所で検出された。平面ブラソは方形で西側は大きく削平
を受げている。規模は2.00mx1.50m、最大深は10pを測る。柱穴は3ヵ所
検出されたがいずれも主柱穴にはなり得ない。東壁際で須恵器が出土している。

§3号住居跡出土遺物(第8図)

1は須恵器蓋である。法量は復元口径13.5p、高さは2.6pを測る。外面は
黒灰色、内面は灰色を呈し、擬似宝珠形つまみを有している。2は須恵器蓋である。
法量は口径16.5p、高さは1.6pを測る。内外面ともに淡青灰色を呈する。
焼き歪みが大きい。3は高台付坏である。法量は復元口径13.8p、高さは
5.5pを測る。外面は青灰色、内面は赤褐色を呈する。

§4号住居跡(第9図)

調査区中央に位置している。平面ブラソは方形で東側に張り出し部を設けている。
規模は6.05mx3.60m、最大深は40pを測る。他の住居跡より高い位置
にあるため比較的遺存状況はよかった。
構造は主柱穴2本の建物である。ほぽ全周に壁溝を有しており、張り出し部は8p
ほど高くなっている。また、南壁際に屋内土坑を設げており、坑内には高坏ほか数点
の土器が出土した。

§4号住居跡出土遺物(第10図)

1は甕の胴部である。内外面とも赤褐色を呈し、胎土は角閃石、石英、茶色粒を含む。
外面調整は不明だが、内面は横方向のケズリを施している。遺存高は9.8pを測る。
2は高坏である。脚の一部を欠くがほかは完存である。調整は不明である。法量は
口径が20p、復元底径は10.7p、高さは13pを測る。口縁部が外反するところ
に特徴がある。

§5号住居跡(第12図)

調査区中央に位置している。平面ブランは方形で、一部撹乱を受げている。規模は
4.80m×4.30m、最大深35pを測る。主柱穴は2本である。西側の一部を
のぞき、ほぼ全周に壁溝を設げている。また、東側から中央に向げてしきり溝があり、
中央には土坑を有している。

§5号住居跡出土遺物(第11図)

1は甕の頚部である。内外面とも褐色を呈し、胎土は角閃石、白色粒を含む、外面調整
は不明だが、内面には横方向のケズリが施されている。2は高堺である。色調は淡黄
褐色を呈し、胎上は角閃石、白色粒、茶色粒を含む。内外面とも摩滅がひどく調整は
不明である。口径は約16p、高さ13pを測る。

§6号住居跡(第13図)

調査区北西に位置し、他の遺構とは少し離れた場所に構築されている。平面プランは
方形で、規模は約2.05m×2.20m、南側を大きく削平されており深さは最大
で15pを測るのみである。柱穴は検出されたが主柱穴にはなり得ない。

§6号住居カマド(第14図)

住居跡の南西隅に設げられていた。支脚は高坏を倒立させて用い床に固定されている。
火床面はおよそ50pの範囲でほぼ円形を呈している。

§6号住居跡出土遺物(第15図)

1は甕である。色調は赤褐色を呈し、胎土は角閃石、石英を含む。調整は胴部内面に
ケズリ調整を施している。復元口径は13.8p、遺存高は10.0pを測る。
2は高坏である。色調は全体に赤褐色を呈しているが支脚に転用されていたため被熱
により変色し、またススが付着している。胎土はわずかに白色粒を含むが総じて精緻
である。調整は坏部において丁寧なナデ調整をみることができるほか、脚部外面に丁寧
なタテ方向ケズリが施され、また脚部内面にはヨコ方向のケズリが施されている。
形態の特徴は坏部の稜が明確であることや界底部から口縁部にむかって直線的に伸びた
のち端部に近いところでわずかに膨らみをもつ。

§7号住居跡(第16図)

調査区東側の谷斜面に面した台地の端に位置している。平面プランは方赦で規模は
3.80m×2.90m、深さは最大で20pを測る。東側は削平を受げているため
全体のプランを確認することはできなかった。

§7号住居跡カマド(第17図)

北壁に設げられた北向きのカマドである。ほほ東西壁問の中央部に構築されている。
カマド奥壁は、住居跡の壁よりわずかに外に張り出すタイプである。
そで上部施設はすでに削平され残っていないが、片側の袖石が確認されたほか東側で
袖石の抜き取り痕が検出された。

§7号住居跡出土遺物(第18図)

甕の一部である。色調は内外面とも赤褐色で胎土は角閃石、白色粒、茶色砂粒を含む。
内面の頚部から胴部にかげて横方向のケズリが施きれている。復元口径14.4p、
遺存高8.3pを測る。

§8号住居跡(第20図)

調査区東端部に位置している。平面プランは楕円形で4.50mx4.00m、
最大深20pを測る。柱穴は多数確認されたが主柱穴を断定することはできなかった。
ほぼ中央に不整形な土坑をもちこぶし大くらいの礫を有していた。出土した須恵器
および土師器の甕は、後の流れこみによるものと考えられ、小片ではあるが弥生土器
の壷で胴部の刻み目突帯部が床面より出士している。

§8号住居跡出土遺物(第19図)

須恵器坏身で遺構検出時に埋土より出土した。
法量は口径14.2p、受け部径12.2p、高さ3.8pに復元される。
色調は内外面ともに青灰色を呈している。

§9号住居跡(第21図)

調査区中央東側に位置している。平面プラソは方形で3.30mx2.80m、
最大深10pを測る。東壁よりに屋内土坑を有している。柱穴は確認されなかった。
出土遺物はなし。

§10号住居跡(第22図)

調査区北側に位置している小竪穴遺構である。平面ブランは不整形で規模は2.20m
×1.10m、深さは最大で15pを測る。北側の狭小な場所に焼土が多く堆積して
おり、カマドが設げられていたと考える。また焼土堆積部はわずかに掘りくぼめられて
いる。カマドの逆方向に柱穴が確認された。

§lO号住居跡出土遺物(第23図)

1は甕である。色調は濃褐色を呈し、胎土は角閃石、石英、褐色粒を含む。調整は不明
である。復元口径は18.0p、遺存高は5.7pを測る。

§11号住居跡(第24図)

調査区東側に位置している。北側を5号土坑に大きく削平されているため全容を把握
することはできないが方形ブラソを呈していたと思われる。遺物は床直上に甕の破片
が数点出土しており、図化できないものの内面にケズリ調整が施されている。

§12号住居跡(第24図)

調査区南側中央で検出された。遺構は大きく削平を受げており、立ち上がりはほとん
ど確認することができなかった。柱穴は多数検出されたが、主柱穴になり得るもの
断定できなかった。床面直上よりカマド構築物と思われる粘土塊が多く出土している。

§12号住居跡出土遺物(第26図)

1は甕である。色調は赤褐色を呈し、胎土は角閃石、石英、赤褐色粒を含む。内面には
横方向のケズリが施されている。復元口径12.0p、遺存高11.5pを測る。
2は粘土塊である。住居跡全域で検出されたものの一部で、被熱を受けている。
外面は粗いケズリを施している。カマドの構築物ではないかと思われるが、もしそう
であるとしてもどの部分を構成するものかは不明である。図化した遺物については
上下が逆の可能性もある。

2。掘立柱建物

§1号掘立柱建物(第27図)

調査区中央の東端に位置している。規模は東西に棟行をとる2問×3問である。
建物の向きは長軸方向を北からみて約30度東向きである。柱穴掘方はすべて平面
円形で径20〜30p、深さは検出時で約20〜30pを測る。

3。土坑

§1号土坑(第28図)

調査区の北側に位置し、約120x50pの不整形の土坑である。深さは最大で約30
pを測る。底面は東側に緩やかに傾斜している。出土遺物の中で図化できるものは
1点である。他には土師器片および黒曜石片が出土している。

§1号土坑出土遺物(第32図)

脚付甕の底部である。色調は淡褐色を呈し、胎土は角閃石、茶色粒を含む。底部内側
に指押圧痕が残っている。

§2号土坑(第29図)

調査区中央・号住居跡の東側に位置している方形土坑である・規模は約190px
125p・深さは最大で20pを測る。出土遺物なし。

§3号土坑(第30図)

調査区中央9号住居跡の北側に位置している長方形土坑である。規模は約170p
x70p、深さは最大で20pを測る。

§3号土坑出土遺物(第33図)

土師器の甕底部である。色調は淡赤褐色で、胎土は角閃石、白色砂粒、赤色粒を合む。
遺存高3。0pを測る。

§4号土坑(第31図)

調査区南側の緩斜面に位置している。規模は直径約140pの円形土坑で、深さは最大
で40pを測る。坑内には、多量の礫とともに鉄製品が出土している。鉄製品は細かく
砕げており、図化できないが鉄製釜と思われる。年代は近世以降に属するものと思わ
れる。

§5号土坑(第34図)

調査区東側、谷に面した場所に位置している。検出時は、天井部が崩落し黒色土が
半ドーナツ状に埋まっていた状況をみることができた。平面ブランは馬蹄形で東側に
入口部を設けている。規模は奥行2.8m、最大幅2.3mを測る。入口部より主室
へは階段状に構築されており、中段の位置に炭化材(約25pおよび約50pの2点)
が検出された。また、主室の奥側に近い位置に床面より20pの盛土(褐色砂質土)
をし、そのうえに南北に長く自然礫を用いた部分が確認された。何らかの施設を想定
できるが、調査中に理解することはできなかった。

4。その他の遺物(第35・36図)

次に示すものは、表土中および遺構検出中に出土した遺物で図化可能なものの一部で
ある。

(土器)
1は土師器の甕である。色調は内外面ともに暗茶褐色で、胎土は角閃石、
石英および白色砂粒を含む。外面の頚部から胴部にハケ調整を持ち、内面はヨコ方向
にケズリを施している。復元口径は15.3pで、遺存高は10.0pを測る。

2は高坏の坏底部である。色調は内外面ともに淡褐色で胎土は角閃石、石英、白色粒、
茶色粒を含む。調整は摩滅がひどく不明である。

3は高坏の底部である。色調は淡茶色を呈しており、胎土は角閃石、白色粒、赤茶色粒
を含んでいる。遺存高は約3.5pを測る。

(石器)
1は黒曜石製の石鏃である。法量は最大長3.5p、最大幅2.5pを測る。
2は姫島産黒曜石製の石鉄である。法量は最大長3.5p、最大幅3.0pを測る。
3は黒曜石の未製舐である。
4は黒曜石で使用剥離痕を1側面にもつ。
5は石匙の未製品で黒曜石製である。法量は最大長5.0p、最大幅3.0pを測る。
6はサヌカイト製の石匙である。先端部を欠失している。法量は最大長7.5p、
  最大幅3.5pを測る。
7は頁岩製の磨製石斧である。基部を欠失している。法量は最大長9.Op、最大幅
  5.0pを測る。
8は安山岩製の磨石である。4主面をすべて使用している。法量は最大長14.2
  p、最大厚3.Op、最大高2.7pを測る。

Vまとめ

1。集落について

調査の結果、竪穴住居跡12軒・堀市柱建物数棟・土坑5基・往穴などが検出された。
このうち竪穴住居跡からは時期の特定可能な甕、高坏などの遺物が出土しており、
大きく6期に区分することができる。ただし、2号、11号住居跡が時期が特定
できないほか、9号住居跡からは遺物が出上していないためここでは時期区分から
外すこととする。

1期は8号住居跡が該当する。図化レていないが壷の破片で刻み目突帯を有する胴部
が出土しており、弥生時代後期前半におくことができる。また同住居跡出土の須恵器
の土不身は遺構検出中に発見されたもので流れ込みの遺物である。

2期は1号および4号住居跡が該当する。1号住居跡出土の謹(第4図2)は外面
ハケ、内面へラケズリの特徴を持つ布留式系の土器である。また、4号住居跡出土の
高坏(第10図2)は体部が直線的に伸びる特徴から井上編年の古墳時代1式に相当
し、同住居跡から出土し図化できなかったものに薄手で外面タタキ、内面ヘラケズリ
の特徴を持つ庄内式系の甕の破片が出土しているがこれらは同型式の範疇で捉えられる
。以上の点から1号、4号住居跡の時期を古墳時代前期初頭におくことができる。

ところで、この時期の住居跡の形態は、4本柱の方形プランが一般的とされている。
ところが本遺跡の1号、4号住居跡は2本柱で長方形プランを呈することから時期的
な問題を踏まえて今後検討を要する。また、1号住居跡出土の高坏(第4図4)には
脚下端部の対面に2対の透かしを有していた。県内では出土例がなく、今回時間的な
制約もあり類例を求めることができなかったが今後の課題としたい。

3期は5号住居跡が該当する。屋内土坑から出土した高坏(第11図2)は特徴から
福岡県吉井町塚堂遺跡のW期に相当し、古墳時代前期の時期にあたる。

4期は6号住居跡が該当する。本住居跡では南西角に造り付けカマドを設けている
のが確認された。ところで、住居跡の角にカマドを有するものは市内では求来里
平島遺跡、尾漕遺跡A地区で例があるものの県内では珍しい例である。本遺跡同様、
求来里平島遺跡では須恵器は出土しておらず当該時期の遺構と思われ、本地域における
カマド出現期を考えるうえで重要である。

5期は7号住居跡が該当する。出上した甕から古墳時代後期頃にあたる。また、近隣
の8号住居跡からは7号住居跡と同時期と見られる須恵器の坏身が出土している。
この遺物に関しては7号住からの流れ込みの可能性が考えられる。なぜなら、7号
住居跡の周辺にこの時期の遺構、遺物が発見されていないからである。

6期は3号住居跡が該当する。調査区の南西に位置し他の時期の遣構とは空間を隔て
たところにある。3号住居跡は、出土した須恵器蓋や高台付の坏から8世紀中頃が与
えられる。この点からは当該時期に周辺がどのような状況を呈していたかは不明である
が、小支谷に面した奥まったところに立地していることは何らかの意味を持っていた
と考えることができよう。

遺跡の中心的な時期は、古墳時代前期で1号、4号住居跡(4世紀初め)から5号住居
跡(4世紀後半頃)に移っていったと考えられる。以下、4期は6号住居跡を古墳時代
中期におき5期は古墳時代後期頃に該当するとし、6期は3号住居跡より奈良時代
(8世紀中頃)に比定できるものである。

以上の点から言えることは、これまで盆地内での集落の移り変わりを見るとき弥生時代
において拠点的な集落が台地上に形成され、その後古墳時代に入ると台地をおりて
居住域が移っていくという過程があるなかで本遣跡においては小規模ながら逆の現象
が見られるということである。

<<参考文献>>

(報告書)

馬田弘稔『塚堂遣跡W』一般国道210号線浮羽バイパス関係埋蔵文化財調査
 報告書第4集1985

「塚堂遺跡T』福岡県教育委員会1984

小林義彦『唐原遺跡I一集落吐一』福岡市埋蔵文化財調査報告書第207集1989

後藤一重『上野遺跡』豊後高田市文化財調査報告書第1集豊後高田市教育委員会1990

田中裕介『日田市高瀬遺跡群の調査1』大分県教育委員会1995

村上久和『原田遺跡ほか』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(4)1995

友岡信彦『日田条里ほか』九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(5)1997

(論文/研究会資料)

井上裕弘「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』

児嶋隆人先生喜寿記念論集1991

田中裕介「日田盆地三隈川南岸の考古学からみた開発史」大分県地方史第154号1994

第32回埋蔵文化財研究集会『古墳時代の竈を考える』第1〜3分冊1992

2.5号土坑について

調査区東側の谷に面した位置で検出された遺構である。5号土坑については、出土遣物
もなく時期不明で且つ用途不明であると思われたが検出時の状況などから地下式坑
(壙)と考えている。地下式坑は現在、県内24遺跡33例が確認されており、分布域
は県北部、国東半島東端、大分市、臼杵市、大野川流域などにみられ、日田市郡を
除いた全県下で確認されている。

発見例のなかで時期の明確なものは8例のみで多くは16世紀代(一部15世紀)の
遣物を共伴している。今後、日田盆地においても遣構の発見の可能性が示唆され、
詳しい考察についてはその機会に委ねたいが、今回の調査では遺物の出土がないこと
で時期を特定できないほか、どのような機能をもつ施設であるかもわからない。

ただし11号住居跡との切り合い関係からその時期以降と捉えることはできよう。
遣構検出時の状況は、天井部とみられる地山土が既に崩壊しており黒色土の流入が
認められた。

この土坑の平面形態および出入口の存在、空間の利用法などから地下式坑に類する
ものと考えてみた。なお、地下式坑の定義は以下のとおりである。

「地平面下に竪壙を掘り下げてこれを入口部とし、その底面から横へ掘り下げて本体
である地下室を築いた遺構」
これを踏まえてみた場合、今回検出された土坑は馬蹄形プランを呈し東側に入口を設
けており、主体となる空間を有している。入口部から通道部において段をもつ構造で、
段と主室底部との比高差は約25cmを測る。このような形態論については、これまで
半田堅三氏、中田英氏、大橋康二氏。池上悟氏らの論考がある。

主室部分については、埋土により完全に埋もれていたものの主室の奥壁手前に礫を
積み上げた状態が検出された。このような状況は他遺跡にも類例をみることができ、
「壙」としての用途を想定する場合、屍床と考える例もあるようである。ただし、
本遺跡の場合遺存状況から以上の点を言及することは難しい。

また、入口中段において炭化材が2点出土している。1点は50X17cm、最大厚
が3cmで、もう1点は25×12cmで、厚みがlcmを測る。しかしながら、
主室内で熱変した箇所および焼土、炭化物等は検出されておらず入口部分の構造物の
一つなのであろうか明確な答えはでない。

地下式坑に関しては、遣物を伴うことが少ない点や用途が明確でないところが大きな
間題点になっており加えて今回の例は検出状況が良好であるとは言えないために可能性
を述べるに留まるが、現時点において日田地域には発見例がなく、慎重に考えたいとと
もに今後検出される機会を待ちたい。

※地下式坑の「坑」については、「壙」が用途を限定するため今回は前者を用いている。
《参考文献〉

田中英「地下式墳研究の現状について」『神奈川考古』第二号1977
半田堅三「本邦地下式墳の類型学的研究」『伊知波良』2 1979
池上悟「地下式墳瞥見」「立正史学』59号1986
原田昭一「大分県における中世後半期の墓制変革」「考古学と信仰』1994
川上秀秋ほか『岡遣跡』財団法人北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室1989
田中裕介『日田市高瀬遺跡群の調査1』大分県教育委員会1995
原田昭一「大分県における中世後半期の墓制変革」『考古学と信仰』同志社大学1994

おわりに

今回の調査の結果、口が原遺跡は集落遺跡であることがわかったが決して拠点的な集落
とは言えない。しかしながら、弥生時代後期〜古墳時代初頭にかけての盆地北部に
おける拠点的な集落である小迫辻原遺跡とほぼ同時期の遺構の発見があったことで
当該時期の盆地全体の様相を考える上で貴重な資料であると思われる。特に、外来系
の甕を出土した1号および4号住居跡の位置づけは重要であると考え、三隈川を挟んだ
南北の台地で外来系の土器の流入する時期に先に述べたような同様の居住形態を見る
ことができた事実は今後この時期を理解して行くうえでの指針となろう。

また、6号住居跡のように住居跡の角に設けられたカマドは「類竃」とも称され、
これまで畿内、北部九州などで検出されている。同様な例は、福岡県塚堂遺跡のほか、
市内の求来里平島遣跡や尾漕遺跡で確認されているが県内ではまれである。

一つの時期幅が想定できるとともにカマド構造の発展形態を知る上で重要であると考え
られる。以上の発見例は、5世紀中頃〜6世紀代に及ぶことがわかっている。

カマド出現期の構造を理解するうえで資料性を十分に含んでおり今後の調査例が
待たれる。また、5号土坑の間題はこれから発見例が増えることで明らかとなる部分
が多いと思われる。この地域の歴史を解明するうえで口が原遺跡の果たす役割は大きい
と考えるが、特に立地の点で台地上において弥生時代後期から古墳時代後期まで小規模
ながらも継続して人々が生活していたことは今後再検討する余地があるように思う。

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