U 遺跡の立地と環境

U 遺跡の立地と環境

日田市は大分県西部に位置し、周囲を山野に囲まれた盆地特有の背観を形成する。
筑後川上流部に属し、文化的には甕棺墓制の採用や彩色を用いた装飾古墳の造営など、
弥生時代以来、北部九州の影響を顕著に受けてきた地域と言える。

森ノ元遺跡は、日田市東部の求来里川沿いに細長く形成された谷状沖積地に存在する。
近年この地域一帯は、幹線道路網整備や工業団地建設、宅地造成、ほ場整傭といった
各種の開発が急ピッチで進められてきた反面、これまで知られていなかった遺跡も
相次いで発見調査されていった。

以下、これまでの調査遺跡を概観しながら森ノ元遺跡周辺における遺跡立地の動向に
ついて見てみることにする。

 平成5年度の求来里平島遺跡@(第7図25)の調査では、河川のすぐ近くから縄文
時代晩期の土坑や古墳時代中期から後期にかけての竪穴住居跡がまとまって発見され、
はじめて求来里川流域の沖積地上に遺跡の存在することが確認され、その後尾漕遺跡A
(第7図14)の調査では、古墳時代後期の竪穴住居跡や中世の墓が発見されるなど、
求来里川下流域においても遺跡が展開していたことがあきらかとなった。

平成8年度の馬形遺跡(第7図35)の調査では、古墳時代後期の竪穴住居跡や掘立
柱建物跡、古代の木棺墓などが発見され、沖積地を見下ろす丘陵斜面や裾部にまで遺跡
の広がりがみられることがわかり、同年から9年度にかけての長追遺跡(第7図16)
の調査では、古墳時代や古代の竪穴住居跡が多数発見され、丘陵に挟まれた谷部の奥
にまで遺跡の存在が碓認された。

目を転じて沖積地を囲む台地上や丘陵上を見てみると、祇園原還跡(第7図15)の
調査では、弥生時代中期末から後期にかけての竪穴住居跡や掘立柱建物跡、小児用甕棺
墓が発見され、当該時期にはこの一帯に集落の存在していたことがあきらかとなった。

また大迫遺跡B(第7図15)の調査では吉墳時代中期の石棺墓や土坑墓が発見され、
この時期の集団墓地の存在が確認され、尾漕古墳C(第7図22)の調査では、後期
初頭の市内でもこれまで発見されている中で最も古い横穴式石室を採用した古墳である
こと、尾漕2号墳(第7図17)の調査では、中期初頭の組含せ式箱式石棺墓を採用
し、市内でこれまで発見された古墳の中でも、小迫古墳や薬師堂山古墳と並ぶ古い
時期吉墳であることがあきらかとなった。

以上のようにここ数年の発掘調査によって、この地域一帯では縄文時代以来、長期間に
わたって生活地や墓地として人々の暮らしが運綿と営まれつづけてきたことを示す手掛
かりを得ることができた。

@平成5年度日冊市埋蔵文化財年報2』日田市教育委員会1996
A大分県理蔵文化財年報3』一平成5年度版一大分県教育委員会1996
B友岡信彦他編吠迫遺跡』『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書/6)」
 大分県教育委員会1997
C『大分県埋蔵文化財年報3』一平成5年度版一大分県教育委員会1996

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