中世の遺構と遺物 2

6号建物跡出土遺物(第16図)

龍泉窯系青磁碗の胴部片である。色調は黄緑色を呈する。

7号建物跡(第17図)

6・8号建物跡と切りあう。梁方向北側の棟持柱が8号と重複しているが、先後関係は
つかめない。ただ軸方向はずれるものの建物配置はほぽ同じ位置にあたり、両者は建て
直しの関係であろう。梁間2間(2.7m)x桁行2間(3.5m)の南北棟で、延床
面積は約9.5uを測る。

建物の軸方位はN15゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で
約20cmを測る。

8号建物跡(第17図)

6・7号建物跡と切りあう。梁間2間(3.3m)×桁行2間(4.2m)の南北棟で
、’延床面積は約13.9uを測る。建物の軸方位はN12゜Eである。柱穴の掘り方
は円形で、確認面の直径は平均で約25cmを測る。

9号建物跡(第18図)

10号建物跡に切られる。梁間1間(3.7m)x桁行3間(7.1m)の東西棟で、
延床面積は約26.3uを測る。建物の軸方位はN22゜Eである。柱穴の掘り方は
円形で、確認面の直径は平均で約25cmを測る。

10号建物跡(第18図)

9号建物跡を切る。9号とほぽ同じ位置であり、9号の立て直しであろう。梁間1間
(4.1m)×桁行3間(6.9m)の東西棟で、延床面積は約28.3uを測る。
建物の軸方位はN21゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約
25cmを測る。

11号建物跡(第19図)

2号建物跡とほぽ平行している。梁間1間(3.6m)×桁行2間(5.8m)の東西
棟で、延床面積は約20.9uを測る。建物の軸方位はN33.Eである。柱穴の掘り
方は円形で、確認面の直径は平均で約30cmを測る。

12号建物跡(第20図)

13号建物跡とほば同じ位置で切り合っており、両者は建て直しの関係となる。
また土壙墓が建物内に存在する。梁間1間(3.8m)×桁行2間(5.8m)の
東西棟で、延床面積は約22.0uを測る。
建物の軸方位はN33.Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約
20cmを測る。柱穴(P4)から青磁碗が出土した。

12号建物跡出土遺物(第21図)

龍泉窯系青磁碗である。口縁部を欠損している。高台部分まで紬がかりがみられる。
内面には割花文がみられる。色調は黄緑色を呈する。底径6.4cmを測る。
1号建物跡P2出土の青磁碗と同じ形式である。

13号建物跡(第20図)

12号建物跡と切り合う。梁間1間(3.8m)x桁行2間(5.8m)の東西棟で、
延床面積は約22.Ouを測る。建物の軸方位はN36゜Eである。
柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約20cmを測る。

14号建物跡(第22図)

15号建物跡と切り合う。建物西半分はすでに削平を受け残っていないため、桁方向
の東側柱列は南北に延びないことを確認した上で、建物の規模等を残っている柱穴から
推測した。梁間1間(2.4m)×桁行2間(4.2m)の南北棟で、延床面積は
約10.1uを測る。建物の軸方位はN24゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、
確認面の直径は平均で約15cmを測る。

15号建物跡(第22図)

14号建物跡と切り合う。14号同様に建物西半分は残っていない。推測で梁間1間
(2.9m)×桁行2間(3.6m)の南北棟で、延床面積は約10.4uを測る。
建物の軸方位はN30.Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で
約15cmを測る。

建物跡柱穴等出土遺物(第23図)

1はP5から出土した。口縁部は擬口縁の可能性もあるが、割れ口が見当たらない
ため、口縁部として実測している。復元口径10.4cm、復元底径9.0cm、
器高1.2cmを測る。底部はヘラ切りである。

2はP6から出土した。土師質土器小皿の小破片である。底部はややレンズ底となり、
口縁部に向かって、わずかに外反する。端部はまるく収める。3は調査区内より出土
した。復元口径9.0cm、底径7.4cm、器高1.2pを測る。底部から口縁部
に向かって内湾気味に立ち上がる。底部は糸切りである。

2)溝状遺情(第24図)

北側建物群の西で4条並んで検出された。各溝の間隔は1から順に約1.3m、
約1.0m、約1.Omを測る。

1は残存長3.6m、平均幅約30cm、深さ5cmを測る。
2は残存長5.4m、平均幅約30p、深さ6cmを測る。
3は残存長5.5m、平均幅約40cm、深さ10cmを測る。
4は残存長4.9m、平均幅約40cm、深さ5cmを測る。

4条の溝は、平行して掘られていることから同時期に存在していたと考えられる。
また、出土遺物が物がなく、6号建物跡に溝の一部を切られるが、建物群とはほとんど
重複しないこと、埋土の状況がよく似ていることから、これらは建物群の存在していた
時期に平行してつくられていたことが推測される。

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