W まとめ

Wまとめ

今回調査した各遺構の時期と性格について検討したい。

まず縄文時代の遺構として、埋甕が検出された。埋甕の出土は市内ではよはじめて
であるが・県内では玖珠町原田遺跡などで確認されている。@この埋甕は、上部が削平
より失われているが・肩部直上の沈線の位置や土器の形態などから、熊本県大久保遺跡
などで確認されている深鉢と類似しており、縄文時代晩期初頭から前半(御領式一天城
式)の時期の範疇でとらえることができる。A

埋甕は近くに集落の存在することを示す手掛かりとなるものであり・遺跡より上流で
発見された求来里平島遺跡で晩期の土坑が検出されていることとあわせて考えてみる
と・これらの遺跡の周囲こは点々とこの時期に集落が形成されていた可能性がうかが
える。

次に中世違構としては、掘立柱建物跡や土壙墓などが検出された。これらの遺構からは
、少量ではあるが遺物が出土した。このうち北側建物群の1・6号建物柱穴と南側建物
群の14号建物柱穴および土壙墓からはいずれも中国龍泉窯系青磁が出土している。

これらは形態や紋様などから青磁T類に該当し、その時期は12世紀後半代に比定され
ている。Bその他の遺物についても・瓦器椀の大きさ、土師質土器の器形や特徴など
からほぼその年代に相当する。Cこのことから南北両建物群は同時期に存在していた
ことがうかがわれるが、ただ建物群のうち・北側では最低4回の切り合いが確認されて
いることや、また青磁が当時貴重なものであり伝世する場合があることなどを考えれ
ば、集落の時期は12世紀後半前後から13世紀まで継続していた可能性も考慮して
おく必要がある。

いずれにしてもこの時期の建物群が発見されたのは市内でははじめてのことであり・
また建物群が一つのまとまりを見せていることから、小迫辻原遺跡こおいてみられた
中世の溝で囲まれた屋敷が形成される以前の初期の屋敷形態を考える上で非常こ興味
深い資料となった。

土壙墓については、この時馴こ市内朝日宮ノ原4号木棺墓例Dや三光村佐知遺跡例Eが
あり、いずれも青磁以外に豪華な副葬品が見られる。本遺跡の土壙墓は・それらと
同時期のものであり・また墓壙の規模は小さいものの小刀を副葬しており、ある程度
の身分を持った人物の墓であることか想像される。

この墓と重なるように12・13号建物がたっており・その柱穴からは墓と同類の
青磁が存在することから墓と建物が同時存在していたと考えれば、これは御堂的施設F
の可能性もある。今後類例を待って検討したい。

近世の遺構としては、土坑が2基検出された。1基からは染1寸片が出土し、近世に
おいてもこの場所が畑化されずに残っていたことが推測できた。

このことからこの一帯が畑化されるのは、現在のように求来里川上流から山際に水路を
つないで水落としができるようになって以降であり、その時期については尾漕遺跡の
報告の際に検討してみたい。

@)友岡信彦編「原田遺跡1」九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(4)」  大分県教育委員会1995

A)高橋徹、村上久和、坂本嘉弘、宮内克己一今田秀樹氏にこ教示いただいた。
  吉田正一編『大久保遺跡』熊本県文化財調査報告第143集1994
B)山本信夫編「太宰府条房跡U』太宰府市の文化財第7集1993
  山本信夫「北宋期貿易陶磁器の編年 一太宰府出土例を中心として一」
  「貿易陶磁研究No.8日本貿易陶磁研究会1988
C)横田賢次郎・森田勉「大宰府出土輸入陶磁器について」「九州歴史資料館研究
  論集』  4 1878
D)友岡信彦・土居和幸r日田市朝日宮ノ原遺跡の中世土壙墓」{おおいた考古12号
  大分県考古学会1989
E)坂鵜弘編「佐知遺跡」「大分県文化財調査報告書第81輯」大分県教育委員会
  1989
F)飯沼賢治氏よりご教示

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