森の元遺跡1998

                          森の元遺跡
                          
                 日田市埋蔵物文化財調査報告書
                
                     第 13 号
                
                      1998
                
                    日田市教育委員会
                
             序     文

本市では、近年道路網の整備や工業団地建設、民間の住宅・アパート建設な
どに伴う開発事業が急増しております。そうした反面、小規模水田を規格化、
大型化し、新たな農業を目指そうとするほ場整備事業も市内各地で計画・実施
されてきております。

今回報告いたします森ノ元遺跡は、市道建設やほ場整備事業に伴い新たに発
見された遺跡です。

このたび発行する本書が、埋蔵文化財の普及・活用はもとより、郷土史解明
の手掛かりとしてこ活用いただければ幸いに存じます。

最後になりましたが、調査にあたってこ指導賜りました諸先生方や、こ協力
をいただきました地元の皆様方をはじめ関係者の方々にたいし、心より感謝を
申し上げます。

               平成10年3月10日

              日田市教育委員会教育長
 
                     加藤正俊

                  例    言

1。本書は市道田島有田線バイパス改良工事事業ならびに池辺地区県営ほ場整備事
  業に伴う森ノ元遺跡の発掘調査報告書であり、「市道田島有田線バイバス改良
  工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書1」「池辺地区県営ほ場整備事業に伴う
  埋蔵文化財発掘調査報告書1」とする。

2。調査にあたっては、県耕地課・文化課、市農政課・土木課をはじめ日田市土地
  改良区ならびに地元の地権者の方々のこ協力を得た。

3。調査中には飯沼賢治(別府大学教授)、小林昭彦、江田豊(大分県文化課)、今
  田秀樹(天瀬町教育委員会)氏の現地指導をいただいたほか、出土遺物に関し
  ては高橋徹、村上久和、宮内克己、坂本嘉弘、友岡信彦、田中裕介、松本康弘(大
  分県文化課)、倉住靖彦、横田賢次郎、赤司善彦(九州歴史資料館)氏らの指導・
   助言を得た。
  
4。鉄器の保存処理は宇佐風土記の丘歴史民俗資料館の山田拓伸氏にお願いした。

5。空中写真撮影については、発掘調査潜手前は葛繽B航空、発掘調査後は潟Xカ
  イサーベイの委託により、巻頭図版2の土壙墓の遺物出土状況ならびに土壙墓
  遺物集含写真、個別の遺物写真は文化財写真家長谷川正美氏に撮影いただいた。

6.5以外の遺構写真および、遺構・遺物の実測、製図は行時が行った。

7。出土遺物、および実測図・写真はすべて日田市埋蔵文化財センターに保管して
  いる。
8。本書の執筆、編集は行時が行った。

                 本 文 目 次
T調査の経緯

  1。調査に至る経過
  2。発掘調査の経過
  3。調査組織の構成

U遺跡の立地と環境

V調査の内容

  1。縄文時代の遺構と遺物
  2。中世の遺構と遺物
  3。近世の遺構と遺物
  4。その他の遺構と遺物

vまとめ

挿図目次

  第1図ほ場整備事業範囲と試掘区割図(1/20,000)
  第2図A区トレンチ配置図(1/4,O00)
  第3図A区トレンチ出土土器実測図(1/3)
  第4図森ノ元遺跡発掘調査区域と周辺トレンチ配置図(1/2,000)
  第5図森ノ元遺跡遺構配置図(1/300)
  第6図Aトレンチ北壁土層図(1/60)
  第7図森ノ元遺跡と周辺遺跡分布図(1/20,000)
  第8図埋琵実測図(1/15)
  第9図土器実測図(1/3)
  第10図1号建物跡実測図(1/60)
  第11図1号建物跡出土遺物実測図(1/3)
  第I2図2号建物跡実測図(1/60)
  第13図3号建物跡実測図(1/60)
  第14図4・5号建物跡実測図(1/60)
  第15図6号建物跡実測図(1/60)
  第16図6号建物跡出土遺物実測図(1/3)
  第17図7・8号建物跡実測図(1/60)
  第18図9・10号建物跡実測図(1/60)
  第19図11号建物跡実測図(1/60)
  第20図12・13号建物跡実測図(1/60)
  第21図12号建物跡出土遺物実測図(1/3)
  第22図14・15号建物跡実測図(1/60)
  第23図柱穴等出土遺物実測図(1/3)
  第24図溝状遺構実測図(1/60)
  第25図土壙墓実測図(1/30)
  第26図土壙墓出土遺物実測図(1/3)
  第27図1号土坑実測図(1/30)
  第28図2号土坑実測図(1/30)
  第29図土坑実測図@(1/30)
  第30図土坑実測図A(1/30)
  第31図土坑実測図B(1/30)

写真図版目次

巻頭図版1  森ノ元遺跡全景(南方向より)
巻頭図版2  <上>土壙墓遺物出土状況
       く下>土壙墓出土遺物
写真図版1  <上>森ノ元遺跡調査前風景(真上)
       く下>森ノ元遺跡全景(南方向より)
写真図版2  <上>森ノ元遺跡全景(真上)
       く中>建物群全景(真上)
       く下・左>北側建物群全景(真上)
       く下・右>南側建物群全景(真上)
写真図版3  く上・左>12・13号建物跡と土壙墓
       <上・右上>埋甕出土状況
       <上・右下>埋甕断面
       く下>土壙墓遺物出土状況
写真図版4  <上・左>1号土坑完掘状況
       <上・右>2号土坑完掘状況
       <中・左>3号土坑完掘状況
       <中・右>4号土坑完掘状況
       <下・左>6号土坑完掘状況
       く下・右>5号土坑完掘状況
写真図版5  森ノ元遺跡出土遺物

T調査の経緯

1。調査に至る経過

調査対象となった森ノ元遺跡周辺には、九州横断自動車建設によって発掘調査された
尾漕遺跡や民間の住宅団地建設事業により発見調査された馬形遺跡などがある。

今回これらの遺跡周辺や隣接地を含む一帯で、ウッドコンビナート建設に伴うアクセス
道などを目的とした地方道改修事業(市道田島有田線バイパス改良工事)や農業所得
の向上と農業環境整備を目的とした池辺地区県営ほ場整備事業(農地利用権設定特別
促進事業)、求来里川河川改修事業などの開発事業が同時に事業計画決定され、照会文
が提出された。

このため関係機関と協議を行い含意を得た上で、平成9年4月22日、県教育委員会
と市教育委員会双方で、遺跡の有無の確認調査をし、その費用については河川改修分
は県が、それ以外を市が国庫補助事業で試掘を行うこととした。

試掘調査は、平成8年度に試掘調査を実施した区域を除いた以外はすべて行うことと
なったが、対象区域が広範囲に及ぶため、調査区をAからD区までの4地区に分け
(第1図)、機械と手作業により平成9年6月22日から7月3日まで延べ79本の
トレンチを設定して行った。

試掘調査の結果、各地区のトレンチより遺構・遺物が検出されたことから、事業実施
範囲を発掘調査した場合約70,000uにも及ぶ膨大な面積となるため、その後
県文化課を交えて県耕地課・市農政課と協議を行い工法変更等により遺跡の保存を図る
とともに、やむをえず工事により遺跡の失われる地点については、発掘調査の範囲と
期間、費用についての協議を進め、河川改修区域については県が、市道建設とほ場
整備事業区域については市が発掘調査を実施することとした。

ほ場整備事業調査対象区域で市が発掘対象としたのはD区(尾漕遺跡)と今回新たに
発見され、岡知遺跡に新規登録されたA区(森ノ元遺跡)についてであった。

第2図に示すとおり、試掘調査時に遺構の確認されたトレンチの大部分は、ほ場
整備地区の中央を通す市道建設区域より東部の高い位置であった。そこでこの地区
では、遺構の密度の高い市道より東側については全面盛土による保存を行い、それより
西側の切土部分についてのみ発掘調査の対象とすることとなった。

またこれについては市道部分とほ場整備部分とが隣接する一つの遺跡であることから、
市土木課を含めた協議で、調査対象面積を案分することにより調査費を組むことで
合意に達し、平成9年7月31日に県耕地課と協議書を取り交わし、8月1日には
委託契約書を締結、9月1日より発掘調査に着手した。

なおA区において確認された遺構の大部分は保存されることになったため、試掘調査
の成果として今後の周辺開発等の参考となることから、トレンチ内より出土した主な
遺物については第3図に図示し説明を加えることにする。

A区の試掘調査では計35本のトレンチを設定した中で、9ヶ所において遺構の存在
が確認された。

(第2図)また各トレンチの中からは古墳時代から中世にかけての遺物が発見された。
中でも30号トレンチからは椀や高坏などの5世紀代の特徴をもつ土師器がまとまって
出土した。(第3図)

1は白磁椀で口縁部は平坦となる。2は須恵器坏身で比較的古式の様相を呈する。
3は龍泉窯系青磁椀である。4〜6は椀で口縁端部は小さく外反する。
7・8は高坏で、7はゆるやかな曲線を描きながら口縁部へと伸びる。
8は体部は椀状となり一段退化した稜をもつ。

2。発掘調萱の経過

発掘調査は平成9年9月1日より開始した。調査の開始にあたっては、調査区が小谷
を隔てて南北にわかれることから、便宜状北区と南区に分けることにした。

機械による表土剥ぎ作業は試掘調査の結果により遺構の確認されている北区から行って
いった。

北区では、調査区東部を中心に柱穴群が集中して検出され、南部に行くにつれて希薄
となっていった。

その間には縄文時代の埋甕も出土し、その時期の遺構の広がりも考えられるため、
埋甕の出土した位置よりすぐ西側にトレンチ(Aトレンチ)を設定し、土層の確認作業
を行った。(第6図)

その結果、水田面の最下層とみられる層(5層)以下では地形に沿って下がる自然堆積
面となり(6〜9層)、埋土の状況から6層以下では遺構の存在する可能性は少なく、
遺構が存在するとすれば、4・5層を取り除いた面であると判断し、この面のみの調査
を行うことにした。

表土剥ぎ作業は北区を9月6日に終了し、引き続き南区の調査に移っていった。

南区では、試掘調査で調査対象区域内に遺構が確認されなかったことから、再度トレン
チによる遺構の確認作業を行うことにした。(第4図黒塗り部分)その結果、近世の
水田層は確認されたもののそれ以前の遺構は検出されなかったことから、この区域に
ついては土層図を作成するに止め、発掘調査は行わなかった。

発掘調査は遺構の掘り下げ作業を表土剥ぎ作業と併行して行い、9月12日には別府
大学の飯沼賢治氏に現地指導を頂き、同月17日に遺跡全体の空中写真撮影を実施し、
9月20日をもって器材を撤収し調査を終了した。

整理作業は平成9年12月9日から平成10年1月30日まで行った。

なお、森ノ元遺跡の発掘調査面積は2,591u、所在地は大字東有田字打上り
3157番地ほかである。

3.調査組織の構成

調査主体      日田市教育委員会

調査責任者     加藤正俊(日田市教育長)

調査事務      原田俊隆(日田市教育委員会文化課課長)
          長尾幸夫(同課長補佐)
          森山一宏(同主任)

調査員       土居和幸(同主任)
          行時志郎(同主任)発掘調査担当
          吉田博嗣(同主事)
          松下桂子(同主事)
          永田裕久(同主事補)試掘調査担当

調査作業員     荏隈香苗(大手前女子大学生)・高倉厚巳・梶原利徳・
          穴見基彦、長谷部喜吉、酒井光敏・田中昇・鍛冶屋アサヨ、
          高倉ハナ子、高倉光子・菅田クマエ・荏隈マサコ、荏隈典子、
          北澤幾子・荏隈マサ子・伊藤キヨ子、吉永ハルエ、吉永澄江

整理作業員    桑野菊芙、河原直美・石松裕美・小埜和美・伊藤弘子、稲尾須美子

U 遺跡の立地と環境

日田市は大分県西部に位置し、周囲を山野に囲まれた盆地特有の背観を形成する。
筑後川上流部に属し、文化的には甕棺墓制の採用や彩色を用いた装飾古墳の造営など、
弥生時代以来、北部九州の影響を顕著に受けてきた地域と言える。

森ノ元遺跡は、日田市東部の求来里川沿いに細長く形成された谷状沖積地に存在する。
近年この地域一帯は、幹線道路網整備や工業団地建設、宅地造成、ほ場整傭といった
各種の開発が急ピッチで進められてきた反面、これまで知られていなかった遺跡も
相次いで発見調査されていった。

以下、これまでの調査遺跡を概観しながら森ノ元遺跡周辺における遺跡立地の動向に
ついて見てみることにする。

 平成5年度の求来里平島遺跡@(第7図25)の調査では、河川のすぐ近くから縄文
時代晩期の土坑や古墳時代中期から後期にかけての竪穴住居跡がまとまって発見され、
はじめて求来里川流域の沖積地上に遺跡の存在することが確認され、その後尾漕遺跡A
(第7図14)の調査では、古墳時代後期の竪穴住居跡や中世の墓が発見されるなど、
求来里川下流域においても遺跡が展開していたことがあきらかとなった。

平成8年度の馬形遺跡(第7図35)の調査では、古墳時代後期の竪穴住居跡や掘立
柱建物跡、古代の木棺墓などが発見され、沖積地を見下ろす丘陵斜面や裾部にまで遺跡
の広がりがみられることがわかり、同年から9年度にかけての長追遺跡(第7図16)
の調査では、古墳時代や古代の竪穴住居跡が多数発見され、丘陵に挟まれた谷部の奥
にまで遺跡の存在が碓認された。

目を転じて沖積地を囲む台地上や丘陵上を見てみると、祇園原還跡(第7図15)の
調査では、弥生時代中期末から後期にかけての竪穴住居跡や掘立柱建物跡、小児用甕棺
墓が発見され、当該時期にはこの一帯に集落の存在していたことがあきらかとなった。

また大迫遺跡B(第7図15)の調査では吉墳時代中期の石棺墓や土坑墓が発見され、
この時期の集団墓地の存在が確認され、尾漕古墳C(第7図22)の調査では、後期
初頭の市内でもこれまで発見されている中で最も古い横穴式石室を採用した古墳である
こと、尾漕2号墳(第7図17)の調査では、中期初頭の組含せ式箱式石棺墓を採用
し、市内でこれまで発見された古墳の中でも、小迫古墳や薬師堂山古墳と並ぶ古い
時期吉墳であることがあきらかとなった。

以上のようにここ数年の発掘調査によって、この地域一帯では縄文時代以来、長期間に
わたって生活地や墓地として人々の暮らしが運綿と営まれつづけてきたことを示す手掛
かりを得ることができた。

@平成5年度日冊市埋蔵文化財年報2』日田市教育委員会1996
A大分県理蔵文化財年報3』一平成5年度版一大分県教育委員会1996
B友岡信彦他編吠迫遺跡』『九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書/6)」
 大分県教育委員会1997
C『大分県埋蔵文化財年報3』一平成5年度版一大分県教育委員会1996

V 遺跡の内容

1。縄文時代の遺構と遺物

埋甕(第8・9図)

南と北にまとまる建物群の間で検出された。水田基盤により上面はすでに削平を受けて
おり、検出時に円形の土器の横断面形が確認された。

内部に人骨あるいは遺物の存在が想定されることから、掘り下げ作業は慎重に行って
いったが、中からは何も検出されなかった。

また土器の底部は穴があき、埋める以前に穿孔を行っていたようである。

その後掘り方を確認するため、土器のひび割れたところから半裁してみた結果、ほぼ
土器の形に掘り込み、甕の底部より一段深く掘り下げられていることが確認された。

残存の掘り方の径約36cm、深さ約27cm埋甕の埋置角度約85゜を測る。

土器は残存長24.6cm、底径7.4cm、最大径28.2cmを測る深鉢である。
形態は底部から斜め方向に立ち上がり、最大径を測る肩部より内湾して口縁部に向
かって伸びる。

肩部よりやや上に一条の沈線が入る。底部は穿孔のため、はっきりしないが、やや
レンズ底の形態を呈していると推測される。

調整は、内外面とも剥離がひどく、不明である。胎土は角閃石、長石石英を含む。

2。中世の遺構と遺物

1)掘立柱建物跡

掘立柱建物跡は調査区内で切り含いも含めて計15棟が確認された。建物跡はすべて
調査区中央より北部で検出され、約10mの距離をおいて、大きく北側(1〜10号)
と南側(11〜15号)の2つの建物群にわかれる。2つの建物群のうち北側建物群は
最低4回、南側建物群は最低2回の建て替えが建物群同志の切り含い関係からうかがわ
れるが、それぞれの建物群の軸方向をみてみると、北側建物群はN13゜E〜N22゜
Eまでの約9゜のずれの中に収まり、また南側建物群はN24゜E〜N33゜Eまでの
約9゜のずれの中に収まることから、多少のずれはあるものの軸をおおまかに揃えて
おり、ある程度方向性をもってたてられていることがわかる。

また建物群内の延床面積を比較してみると、30uを越えるものは1号のみである。
これは庇も含めてのもので身舎面積では約27uとなり、この規模は3,6,9,10
号建物とほとんど変わらない。

次に4・5号建物でいずれも延床面積は23uを測る。これは11,12,13号建物
とほぽ同じ規模である。

次に8号建物で約14uを測るほかは2,7,14,15号建物は9〜11uの間にあ
たる。これらをまとめてみると建物群は延床面積から3つの規模に規格されてたてられ
ている様子がわかる。

以下個別の建物ことに説明を加えていく。

1号建物跡(第10図)

梁間2間(4.1m)×桁行3間(6.55m)の南北棟の身舎に南面庇が付く。
身舎面積は約26.85uで庇も含めた延床面積は約33.4uを測る
。建物の軸方位はN18.Eである。建物北側柱列および南側柱列線上には、柱の中間
にあたる位置に柱穴が存在し棟を支える補助柱穴の役割を果たしていたと推測される。
柱穴の堀り方は円形で、確認面の直径は平均で約20cmを測る。

1号建物跡出土遺物(第11図)

1はP1から出土した瓦器椀である。復元口径14.6pを測る。色調は暗灰色、
胎土は角閃石、白色粒を含む。2〜4はP2から出土した。
2は土師質土器の堺の小破片である。色調は淡茶褐色で、胎土は角閃石、長石、石英、
赤色粒を含む。3は須恵質上器の担鉢である。復元口径25.6cmを測る。口縁部は
嘴上に立ち上がり、ここから外反気味に胴部へつづく。色調は暗灰色で胎土は角閃石、
石英、白色粒を含む。4は龍泉窯系青磁碗である。復元口径16.4cmを測る。
3〜4本のヘラ描沈線で分割し、その内側に割花文を描く。色調は黄緑色を呈する。

2号建物跡(第12図)

梁間2[1]間(3.Om)x桁行2間(3.7m)の南北棟で、延床面積は約11.
1uを測る。建物の軸方位はN15゜Eである。柱穴の掘り方は円形で確認面の直径
は平均で約15cmを測る。

3号建物跡(第13図)

梁間1間(3,6m)×桁行3間(6.0m)の東西棟の身舎に東面庇が付く。身舎
面積は約21.6uで庇も含めた延床面積は約27.4uを測る。建物の軸方位はN
14゜Eである。柱穴の堀り方は円形で、確認面の直径は平均で約20cmを測る。

4号建物跡(第14図)

5号建物跡を切り、6号建物跡に切られる。また7号建物跡とはほぽ平行関係にある。
梁間2間(3.7m)×桁行3間(5.8m)の南北棟で、延床面積は約21.5uを
測る。建物の軸方位はN16゜Eである。柱穴の堀り方は円形で、確認面の直径は平均
で約30Cmを測る。建物の梁方向にはそれぞれ中心位置に棟持柱が存在し、また桁
方向には1号建物と同様の補助柱穴がみられる。

5号建物跡(第14図)

4・6号建物跡に切られる。梁間2間(3.7m)x桁行3間(5.8m)の南北棟で
、延床面積は約21.5uを測る。建物の軸方位は4号と同じN16Tである。
柱穴の堀り方は円形で、確認面の直径は平均で約30pを測る。4号とほぽ同じ位置に
、棟持柱や補助柱穴がみられる。

6号建物跡(第15図)

4・5号建物跡に切られ、7・8号建物と切り含い、溝状遺構を切る。7号建物跡と
4・5号が建物跡の軸方向が平行であり、これらが同時期とすれば6号は7号より新
しいと考えられる。また4・5号建物跡とほぽ軸が一致していることも考慮すると、
4・5・7・8号の建て替えの際に6号は建てられたものと推測される。梁間2[1]
間(4.3m)×桁行3間(6.4m)の南北棟で、延床面積は約27.5uを測る。
建物の軸方位はN13゜Eである。柱穴の堀り方は円形で、確認面の直径は平均で約
20cmを測る。東側桁のほぽ中央には、補助柱穴がみられる。

6号建物跡出土遺物(第16図)

龍泉窯系青磁碗の胴部片である。色調は黄緑色を呈する。

7号建物跡(第17図)

6・8号建物跡と切りあう。梁方向北側の棟持柱が8号と重複しているが、先後関係は
つかめない。ただ軸方向はずれるものの建物配置はほぽ同じ位置にあたり、両者は建て
直しの関係であろう。梁間2間(2.7m)x桁行2間(3.5m)の南北棟で、延床
面積は約9.5uを測る。

建物の軸方位はN15゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で
約20cmを測る。

8号建物跡(第17図)

6・7号建物跡と切りあう。梁間2間(3.3m)×桁行2間(4.2m)の南北棟で
、’延床面積は約13.9uを測る。建物の軸方位はN12゜Eである。柱穴の掘り方
は円形で、確認面の直径は平均で約25cmを測る。

9号建物跡(第18図)

10号建物跡に切られる。梁間1間(3.7m)x桁行3間(7.1m)の東西棟で、
延床面積は約26.3uを測る。建物の軸方位はN22゜Eである。柱穴の掘り方は
円形で、確認面の直径は平均で約25cmを測る。

10号建物跡(第18図)

9号建物跡を切る。9号とほぽ同じ位置であり、9号の立て直しであろう。梁間1間
(4.1m)×桁行3間(6.9m)の東西棟で、延床面積は約28.3uを測る。
建物の軸方位はN21゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約
25cmを測る。

11号建物跡(第19図)

2号建物跡とほぽ平行している。梁間1間(3.6m)×桁行2間(5.8m)の東西
棟で、延床面積は約20.9uを測る。建物の軸方位はN33.Eである。柱穴の掘り
方は円形で、確認面の直径は平均で約30cmを測る。

12号建物跡(第20図)

13号建物跡とほば同じ位置で切り合っており、両者は建て直しの関係となる。
また土壙墓が建物内に存在する。梁間1間(3.8m)×桁行2間(5.8m)の
東西棟で、延床面積は約22.0uを測る。建物の軸方位はN33.Eである。
柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約20cmを測る。柱穴(P4)から
青磁碗が出土した。

12号建物跡出土遺物(第21図)

龍泉窯系青磁碗である。口縁部を欠損している。高台部分まで紬がかりがみられる。
内面には割花文がみられる。色調は黄緑色を呈する。底径6.4cmを測る。
1号建物跡P2出土の青磁碗と同じ形式である。

13号建物跡(第20図)

12号建物跡と切り合う。梁間1間(3.8m)x桁行2間(5.8m)の東西棟で、
延床面積は約22.Ouを測る。建物の軸方位はN36゜Eである。
柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で約20cmを測る。

14号建物跡(第22図)

15号建物跡と切り合う。建物西半分はすでに削平を受け残っていないため、桁方向
の東側柱列は南北に延びないことを確認した上で、建物の規模等を残っている柱穴から
推測した。梁間1間(2.4m)×桁行2間(4.2m)の南北棟で、延床面積は
約10.1uを測る。建物の軸方位はN24゜Eである。柱穴の掘り方は円形で、
確認面の直径は平均で約15cmを測る。

15号建物跡(第22図)

14号建物跡と切り合う。14号同様に建物西半分は残っていない。推測で梁間1間
(2.9m)×桁行2間(3.6m)の南北棟で、延床面積は約10.4uを測る。
建物の軸方位はN30.Eである。柱穴の掘り方は円形で、確認面の直径は平均で
約15cmを測る。

建物跡柱穴等出土遺物(第23図)

1はP5から出土した。口縁部は擬口縁の可能性もあるが、割れ口が見当たらない
ため、口縁部として実測している。復元口径10.4cm、復元底径9.0cm、
器高1.2cmを測る。底部はヘラ切りである。

2はP6から出土した。土師質土器小皿の小破片である。底部はややレンズ底となり、
口縁部に向かって、わずかに外反する。端部はまるく収める。3は調査区内より出土
した。復元口径9.0cm、底径7.4cm、器高1.2pを測る。底部から口縁部
に向かって内湾気味に立ち上がる。底部は糸切りである。

2)溝状遺情(第24図)

北側建物群の西で4条並んで検出された。各溝の間隔は1から順に約1.3m、
約1.0m、約1.Omを測る。

1は残存長3.6m、平均幅約30cm、深さ5cmを測る。
2は残存長5.4m、平均幅約30p、深さ6cmを測る。
3は残存長5.5m、平均幅約40cm、深さ10cmを測る。
4は残存長4.9m、平均幅約40cm、深さ5cmを測る。

4条の溝は、平行して掘られていることから同時期に存在していたと考えられる。
また、出土遺物が物がなく、6号建物跡に溝の一部を切られるが、建物群とはほとんど
重複しないこと、埋土の状況がよく似ていることから、これらは建物群の存在していた
時期に平行してつくられていたことが推測される。

3)土壙墓(第20・25図)

主軸を東西方向に向ける。長軸約0.95m、短軸約O.81m、深さ約0.13mを
測る。検出面のプランは隅丸方形を意識して、面方向を胴張り状にした変則的な形態と
なっている。底面はほば平坦で、東部に向かって少しずつ高くなっている。側面は斜め
方向にゆるやかに立ち上がる。

遺物は遺構東部の左側に切先を西に向けた小刀が1口、右側手前に青磁碗、その奥に
青磁皿が1枚づつ主軸方向にたてにならんで検出された。

これらの状況から、この還構は墓と考えられるが、クギや木材等の遺物は出土しなかっ
たため、埋葬方法については不明である。

遺物の出土状況や床面の高まりが東部にあることから、頭位は東方向にあると推測され
る。

土壙墓出土遺物(第26図)

1は龍泉窯系青磁碗である。口径16.7cm、底径6.4cm、器高6.8cmを
測る。色調は淡縁灰色。器形は底部から口縁部に向かって内湾し、口縁端紺わずかに
外反する。釉がかりは高台部分まで施釉される。外面は無又でめるが、体部の屈曲部
付近には仕上げ削りの際についたと見られる細い刻み目が存在する。

内面は口縁屈曲部より少し下位に沈線があり、その下部と見込み部州こ草花文を施して
いる。また、高台の内側には、花押とみられる墨書がみられるが、薄く解読はできな
かった。

2は龍泉窯系青磁皿である口径11.5cm、底径5.5cm、器高2.8cmを測る
。色調は淡緑灰色>底部は上底状となり・外面は底部から口縁部の間に稜が入る。

ここから口縁端部までゆるや洲こ外反する。釉がかりは外面納こ施釉され、内面底部
には櫛描文が施されている。墨割よみられない。

3は小刀である。柄の端部が欠損するほかはほぽ完形で残つている。残存長37.0
cm、刃渡27.2cmを測る。背部より切先付近まで真っ直ぐ延び、切先付近で刃部
こ向かってわずかに曲がる。柄には目釘穴が1孔あり断面は刃部側が細くなっている。

3。近世の遺構と遺物

土坑

1号土坑(第27図)

検出面のプランは隅丸長方形を呈し、主軸を南北方向にとる。長軸約1.27m、
短軸約O.73m、深さ約O.32mを測る。
底面はほぽ平坦で、側面は南側がややゆるやかとなる以外は、急角度で立ち上がって
いる。底面北側には径約30cmの浅い掘り込みが見られる。埋土は淡灰褐色である。
遺物としては、1点染付の小破片が出土した。外面に花文を描く。

2号土坑(第28図)

検出面のプランは1号と同様に隅丸長方形を呈し、主軸を東西方向にとる。長軸
約1.01m、短軸約0.61m、深さ約O.30mを測る。底面はほば平坦で、
側面は東側がややゆるやかとなる以外は、急角度で立ち上がっている。
埋土は1号同様に淡灰褐色である。

遺物は出土しなかった。

4。その他の遺構と遺物

土坑

近世の土坑以外に、8基の土坑が調査区中央より南側で検出された。いずれも遺物の
出土はなかったものの埋土の状況から中世以前に湖る遺構と考えられる。

とくに3〜7号遺構は掘り方がしっかりしており、深く、底面には杭状の掘り方を持つ
ものが多いことから、縄文時代の落穴遺構の可能性が高い。以下各遺構ことに説明を
加える。

3号土坑(第29図)

検出面のプランは楕円形で主軸を南北方向に向ける。長軸約1.43m、短軸
約0.99m、深さ約1.80mを測る。検出面より約30cm下から隅丸長方形の
掘り方にかわる。底面はほば平坦で、側面は垂直に立ち上がる。底面は長軸約1.33
m、短軸約0.38mを測り、4つの杭状痕跡が存在する。杭状痕跡の深さはほぽ
15cmを測る。

4号土坑(第29図)

検出面のプランは隅丸方形で主軸を南北方向に向ける。長軸約L43m、短軸約
0.99m、深さ約0.50mを測る。底面はほぽ平坦で、長軸側両側面には段を
有する。底面は長軸約0.75m、短軸約0.46mを測り、中央には杭状痕跡が
1つ存在する。杭状痕跡の深さは17cmを測る。

5号土坑(第30図)

検出面のプランは隅丸長方形で主軸を南北に向ける。長軸約1.35m、短軸約
0.74m、深さ約1.04mを測る。底面は皿状となっており、中央付近が最も低く
なり、側面はほぽ垂直に立ち上がる。底面は長軸約1.22m、短軸約0.70mを
測る。主軸線上には杭状痕跡が2つ並んで存在する。杭状痕跡の深さは20pを測る。

6号土坑(第30図)

検出面のプランは歪な不定形であるが、検出面より約20cm程度下からは隅丸長方形
の掘り方にかわる。主軸は東西方向に向ける。検出面の長軸約0.95m、短軸
約O.65m、深さ約0.85mを測り、掘り方の確認できる位置では、長軸約
0.92m、短軸約0.57mを測る。底面はやや皿状となっており、中央付近が
最も低くなる。側面はほぽ垂直に立ち上がる。底面は長軸約0.80m、短軸約
0.40mを測る。中央には楕円形の大きな杭状痕跡が1つ存在する。杭状痕跡の深さ
は27pを測る。

7号土坑(第31図)

構造物のため、遺構の北半分は調査できなかった。検出した状況から楕円形のプランを
呈すると推測される。主軸は南北方向にとり、検出面の短軸約0.64m、深さ約
0.69mを測る。遺構の南側は崩落のためできたと見られる段が存在する。底面は
中央付近が最も低くなる皿状を呈すると考えられる。側面はほば垂直に立ち上がる。
底面の短軸約0.50mを測る。底面には杭状痕跡は確認されなかった。

8号土坑(第31図)

検出面のプランは隅丸長方形で主軸を南北に向ける。長軸約1.02m、短軸約
0.50mを測る。底面は中央部が高く、主軸北側側面付近は柱穴状に深くなり、また
南側もゆるやかに深くなっている。側面の立ち上がりはほぽ垂直でしっかりしている。

9号土坑(第31図)

検出面プランは歪な不定形で、主軸を東西に向ける。長軸約2.15m、短軸
約1.01mを測る。底面には大きな土坑がさらに2つあり、とくに東側の土坑は、
深く掘り方もしっかりしているので、落穴状の土坑がこれに切られた可能性もある。
東側の土坑のプランは楕円形で長軸約0.99m、短軸約0.66m、深さ約0.78
mを測る。底面は西に向かってやや下っている。また西側の士坑は底面からの深さ約
15pと浅く、プランも不定形である。この北側には柱穴状痕跡が1つ存在している。

10号土坑(第31図)

遺構は東側調査区外へ続く。検出した状況から楕円形のプランを呈すると推測される。
主軸は東西方向にとり、検出面の長軸約1.50m、短軸約0.60mを測る。
底面の中央南側には浅い柱穴状痕跡が1つ存在する。底面はそこに向かって下って
いる。また、北側側面の一部は段を有している。

Wまとめ

今回調査した各遺構の時期と性格について検討したい。

まず縄文時代の遺構として、埋甕が検出された。埋甕の出土は市内ではよはじめて
であるが・県内では玖珠町原田遺跡などで確認されている。@この埋甕は、上部が削平
より失われているが・肩部直上の沈線の位置や土器の形態などから、熊本県大久保遺跡
などで確認されている深鉢と類似しており、縄文時代晩期初頭から前半(御領式一天城
式)の時期の範疇でとらえることができる。A

埋甕は近くに集落の存在することを示す手掛かりとなるものであり・遺跡より上流で
発見された求来里平島遺跡で晩期の土坑が検出されていることとあわせて考えてみる
と・これらの遺跡の周囲こは点々とこの時期に集落が形成されていた可能性がうかが
える。

次に中世違構としては、掘立柱建物跡や土壙墓などが検出された。これらの遺構からは
、少量ではあるが遺物が出土した。このうち北側建物群の1・6号建物柱穴と南側建物
群の14号建物柱穴および土壙墓からはいずれも中国龍泉窯系青磁が出土している。

これらは形態や紋様などから青磁T類に該当し、その時期は12世紀後半代に比定され
ている。Bその他の遺物についても・瓦器椀の大きさ、土師質土器の器形や特徴など
からほぼその年代に相当する。Cこのことから南北両建物群は同時期に存在していた
ことがうかがわれるが、ただ建物群のうち・北側では最低4回の切り合いが確認されて
いることや、また青磁が当時貴重なものであり伝世する場合があることなどを考えれ
ば、集落の時期は12世紀後半前後から13世紀まで継続していた可能性も考慮して
おく必要がある。

いずれにしてもこの時期の建物群が発見されたのは市内でははじめてのことであり・
また建物群が一つのまとまりを見せていることから、小迫辻原遺跡こおいてみられた
中世の溝で囲まれた屋敷が形成される以前の初期の屋敷形態を考える上で非常こ興味
深い資料となった。

土壙墓については、この時馴こ市内朝日宮ノ原4号木棺墓例Dや三光村佐知遺跡例Eが
あり、いずれも青磁以外に豪華な副葬品が見られる。本遺跡の土壙墓は・それらと
同時期のものであり・また墓壙の規模は小さいものの小刀を副葬しており、ある程度
の身分を持った人物の墓であることか想像される。

この墓と重なるように12・13号建物がたっており・その柱穴からは墓と同類の
青磁が存在することから墓と建物が同時存在していたと考えれば、これは御堂的施設F
の可能性もある。今後類例を待って検討したい。

近世の遺構としては、土坑が2基検出された。1基からは染1寸片が出土し、近世に
おいてもこの場所が畑化されずに残っていたことが推測できた。

このことからこの一帯が畑化されるのは、現在のように求来里川上流から山際に水路を
つないで水落としができるようになって以降であり、その時期については尾漕遺跡の
報告の際に検討してみたい。

@)友岡信彦編「原田遺跡1」九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書
    (4)」  大分県教育委員会1995

A)高橋徹、村上久和、坂本嘉弘、宮内克己一今田秀樹氏にこ教示いただいた。
  吉田正一編『大久保遺跡』熊本県文化財調査報告第143集1994
B)山本信夫編「太宰府条房跡U』太宰府市の文化財第7集1993
  山本信夫「北宋期貿易陶磁器の編年 一太宰府出土例を中心として一」
  「貿易陶磁研究No.8日本貿易陶磁研究会1988
C)横田賢次郎・森田勉「大宰府出土輸入陶磁器について」「九州歴史資料館研究
  論集』  4 1878
D)友岡信彦・土居和幸r日田市朝日宮ノ原遺跡の中世土壙墓」{おおいた考古12号
  大分県考古学会1989
E)坂鵜弘編「佐知遺跡」「大分県文化財調査報告書第81輯」大分県教育委員会
  1989
F)飯沼賢治氏よりご教示


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