付鳥羽塚古墳について

付鳥羽塚古墳について

現在日田市内には消滅したものを含めて58基の古墳の存在が確認されている。@
本書で調査報告を行った会所宮遺跡A区の南側に位置する会所山にも、3基の古墳の
存在が知られている。鳥羽塚古墳、後山古墳A、会所宮古墳である。B
このうち、鳥羽塚古墳は市内でも古くから知られていた古墳の一つで、明治4年に
会所宮を記した上地絵図には“止波塚”として古墳の様子が描かれている。その後、
會所宮に古墳1基が存在することが報告され、C昭和47年の県教委の調査D以後、
“鳥羽塚古墳”として周知されるに至っている。

この間、それまで未整備であった日田市の水道事業が本格的に進められるようになり
、会所山に上水道配水池が計画された。昭和29年にはその擁壁工事に伴い古墳の
大部分が破壊されてしまった。

その工事の際に古墳から出土したされる土器が現存している。市内在住の横尾久喜氏
が採集した資料で、ここに遺物の紹介を中心に鳥羽塚古墳についてまとめることとする
。なお、資料は平成元年12月に横尾氏が日田市立博物館に寄贈され、市埋文センター
にて保管されている。

1)古墳の位置と現状(第39図)
鳥羽塚古墳は日田市大字日高73番地に所在する。古墳のある会所山は日田盆地の
東側にあたり盆地に向かって突き出た独特の形をしている。丘陵は東西が約75m、
南北が約30mと東西方向に細長く、丘陵上には3つの頂部がみられる。
標高は約160m、沖積地との比高差は約60mを測る。この会所山については、
古代の比多國造鳥羽宿禰Eが民庶と会する所としての記録Fも残っている。

古墳は第39図左に黒点で示した丘陵中腹の標高約135mに立地する。
そこは丘陵地形からしても、盆地内が一望することができる好所でもある。
現在古墳の上(東側)と下(西側)には上水道タンク2つが設置されていて、
下(西側)のタンクのすぐ背後に墳丘が残る、しかし、どこまでが墳丘ラインなのか、
把握することは困難な状況にある。タンク周辺はきれいに整備されているが、
古墳の位置を示すかのように、墳丘と思われる場所には樹木が植えられている。

古墳の形態については、これまで円墳とされてきた。G市水道課に残る昭和29年
の工事図面から等高線を抜き出したものが、第39図(右)である。はっきりとその
存在が記されている。古墳を対象とした正確な測量図でないため信用性は薄いが、
図をみるからには径10mほどの円墳であったことが読み取れる。しかも、古墳の
位置する場所に限って等高線が乱れていることから、古墳の築造にあたっては
地山整地が行われたと考えることができそうである。

2)古墳株集の遺物(第40図)
古墳から出土採集された2点の土器はいずれも須恵器で、完形品はなく一部を欠する。
1は(瓦泉)である。口縁部を欠く。頸部は肩部から外半するように広がり、肩部に
近い位置に波状文と「ll」のヘラ記号が施されている。頸部と胴部の境は明瞭で、
胴部はやや肩の張った扁球形をなす。胴部上位に2本の沈線が巡り、ほぼ中央には穿孔
がみられる。最大径は胴部下位にあり、底部は半球形をなす。内面は回転ナデ。
外面は上位が回転ナデ後に櫛描列点文、下半は回転ヘラ削り・。色調は灰色、胎土は
石英・微細粒を含む。焼成は良好。胴部の高さ6.7p、最大径は9.8pである。

2は高坏の脚部であろう。脚部は短く、ラッパ状に開く。丸みのある端部は外方に
のび、面となる。調整は内外面ともナデによる仕上げ。色調は灰色、胎土は石英・
微細粒を含む。焼成は良好である。脚部の高さ4.4p、径10.2Cmを測る。

3)まとめ

これまで会所宮山丘陵では風倒木処理や林道開設のたびごとに弥生土器などが
採集されてきたがH、その中こは須恵器は見当たらない。このことから2点の
須恵器は古墳に伴う遺物と考えて間違いなさそうである。その年代については(瓦泉)
の頸部が細く、高坏と考えられる脚部の形状の特徴から小田編年の3−b期Iに
当たる。ただし、今回の資料が古墳の築造年代を示すものかどうかは、追葬の有
無の可能性をも含めて即断することはとうてい不可能なことであるから、古墳の
年代については概ね6世紀後半頃と考えたい。

また、古墳の形状や規模については現状でははっきりしないが、昭和29年の測量図
を参考とするならば、少なくとも径10mほどの円墳であった可能性が高いことを
指摘しておく。築造年代と同様に古墳の詳細については、わずかに残る墳丘や周辺の
今後の調査に期待したい。

@。大分県教育委員会『大分県遺跡地図』1993年
A。古墳は昭和58年に市教委が墓地造成に伴い発掘調査を行い、
  6世紀後半頃の円墳と考えら机ている。
  調査担当者の高橋徹(大分県教育委員会)氏よりご教示いただいた。
B。羨道部が露出しており、横穴石室墳と推定される。
C。日名子太郎「日田郡古墳横穴所在地調査一覧表」1925年
D。大分県教育委員会「日田市・玖珠町埋蔵文化財分布一覧』1973年
E.「國造本紀」には、止波足尼とある。
F。渡辺澄夫編「豊後国荘園公領史料集成8下豊後国史料』(1995年)に所収。
G.Dと同じ。
H。石丸邦夫氏が採集された資料を実見させていただいた。
I。北九州市埋蔵文化財調査会「天観寺山窯跡群」1977年

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