豊後風土記より日田に関する記述

**豊後風土記の日田に関する記載 ** 

** 豊後風土記より日田に関する記述

奈良朝の和銅6年(713)元明天皇は「風土記」選進の詔命を出された.その命の内容 は,

(1)諸国の郡や,郷の名には,好い字を付ける事.

(2)その郡内に産する銀,銅,染料,草木,禽,獣,魚,虫等の品目をつぶさに記録す る事.

(3)土地の肥せき(土脊)の状態を調査報告する事.

(4)山川,原野の名称の由来を報告する事.

(5)古老の語り継いだ古伝説の類を採集し,特別に史籍の形にまとめて報告する事. の5項目からなる.

九州各国は報告書の形で太宰府に集められ,そこで加筆,修正されて奈良の朝廷に提出さ れるが,その作業に20年近くかかる事になる.

天平4年(723)10月西海道節度使として藤原宇合が太宰府に着任,九州の風土記が 未完成なのを憂慮した宇合は,赴任以来わずか10ケ月で完成させ,任務終了の時天平5 年8月頃には奈良へ九州各地の風土記と共に豊後風土記も持ち帰った.

** 日田に関する記述

日田郡(ひたのこほり)郷は5所 駅は1所なり (里は14所)

昔者,纒向日代宮御宇大足彦天皇,球磨贈於を征伐て,凱旋りましし時,筑後国の生葉の 行宮を発ちて,此の郡に幸しませり.神有りて名を久津媛と日ふ.化けて人となり参迎へ ,国の消息を辯へ申しき.斯に因りて久津媛の郡と日ふ.今日田郡と謂ふは訛れるなり.

むかし,まきむくのひしろのみやにあめがしたしろしめししおおたらしひこのすめらみこ と,くまそおをうちて,かちかへりまししとき,ちくごのくにのいくはのかりのみやをた ちて,このこほりにみゆきしませり.かみありてなをひさつひめといふ.ばけてひととな りまいむかへ,くにのありさまをわきまえまをしき.これによりてひさつひめのこほりと いふ.いまひたのこほりといふはなまれるなり.

景行天皇が球磨蘇征伐をしての帰りに筑後の行葉により,その行葉から日田に行幸された 時,久津媛は,天皇を迎えて,日田の国情をつぶさに報告した.それでこの土地を久津姫 の郡(ひさつひめのこおり)と呼ぶようになった.今,日田の郡(ひたのこおり)と言う のはそれが訛ったのだ.

* 日田の5つの郷

日田郡(ひたのこおり)には郷が5つあった.すなわち靭編(ゆきあみ),石井,亘理( わたり),夜明(よあけ),在田(ありた)である.このうち靭編,石井は豊後風土記に 記されている.

靭編(ゆきあみ)とは現在は会所山(よそみや)を中心とした三芳地域で(三芳は,求々 里,日高,田島村の一部が合併したもの),刃連町(ゆきいまち)の名称の原型でもある .(会所山には景行天皇行幸の記念碑や,内柴御風の景行天皇行幸をたたえる詩碑,さら には,最近できた国道212号線バイパス陸橋の下の中野川には久津媛橋もある)

しかし,当時はもっと広く今の天瀬町の旧馬原村,中川村,五馬村全域にまで及んでいた と思われる.

石井は現在五和の石井を指すが,当時の石井は現在の南部(旧高瀬村,五和村)と大山町 ,前津江村,中津江村,上津江村の全域に及んでいたと思われる.しかしながら実質的に は,前津江,上津江,中津江,大山は当時未開で過疎であったため独立した郷を置く程の 人口がなかったので,石井郷の支配下に置かれたものであろう.石井郷には当時日田地方 で唯一駅があった所でもある.

亘理(わたり)は現在の渡里のもとの名で河川を渡れる所と言う意味から出ていると思わ れる.旧光岡(てるおか)村,旧夜明け村の南部をも含むと推測され,現在多数の遺跡が 発掘されている.

夜明は夜焼けから出た呼び名と推測され旧夜明村,旧大鶴村,小野村等にあたり,僅かに 夜明けダムに遺称をとどめている.

在田(ありた)は比多国造の祖,荒田直の居住区でその名に由来すると思われる. 現在の有田地区で,旧東有田村,三花村,西有田村の北部の一部一帯で有田町はその遺称 地である.

* 日田靭編(ひたゆぎあみ)

靭編郷

昔者,磯城嶋宮御宇天国排開広庭天皇の世,日下部君等の祖,邑阿自.靭部に仕へ奉りき ,其の邑阿自,此の村に就きて,宅を造りて居れり.斯れに因りて名を靭負の村と日ふ. 郷の中に川有り.玖珠川といふ.其の源は,玖珠郡の東南の山より出で,流れて石井郷に 到り,阿蘇川に通ひ,会ひて一つの川と為る.今,日田川と謂ふは是なり.

ゆぎあみのさと

むかし,しきしまのみやにあめがしたしろしめししあめくにおしはるきひろにはのすめら みことのよ,くさかべのきみらのおや,おほあじ.ゆぎべにつかへまつりき,そのおほあ じ,このむらにつきて,いへをつくりてをれり.これによりてなをゆぎおひのむらといふ .さとのうちにかわあり.くすがはといふ.そのみなもとは,くすのこほりのたつみのや まよりいで,ながれていしいのさとにいたり,あそがわにかよひ,あいてひとつのかわと なる.いま,ひたがわといふはこれなり.

昔,欽明天皇の頃(539−571)日下部君の祖先にあたる邑阿自という人が都で靭 部(靭とは矢をいれて背中に背負う道具...普通藤葛等でつくった筒状の物)として仕 えていて,後に日田郡のこの村に移り住んで居を構えたので,靭負村(ゆぎおひのむら) と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった.この村に は玖珠川があってこれは玖珠郡の東南の山から流れだし,石井まで流れている.また阿蘇 川(現大山川)が流れ込んで合流して一つの川となっている,日田川(現三隈川)と謂う のはこの川の事である.

注:靭部とは部族で靭を作る靭編部,これを背負って戦う兵士を靭負部といった.従って   靭部とはこれらの部族集団と思われる.

* 石井郷

石井郷

昔者,此の村に土蜘蛛の堡有り,石を用いず,土を以ちて築けり.斯れに因りて名を無石 の堡と日ひき.後の人,石井郷と謂ふは誤れるなり.郷の中に河有り.名を阿蘇川といふ .其の源は,肥後国阿蘇郡の少国の峯より出で,流れて此の郷に到り,即ち玖珠川に通ひ ,会ひて一つの川となり,名を日田川と日ふ.年魚多にあり,遂に筑前,筑後等の国を過 ぎて,西の海に入る.

いしいのさと

むかし,このむらにつちぐものをきあり,いしをもちいず,つちをもちてきづけり.これ によりてなをいしなしのをきといひき.のちのひと,いしいのさとといふは,あやまれる なり.さとのうちにかわあり.なをあそがわといふ.そのみなもとは,ひごのくにあその こほりのをぐにのみねよりいで,ながれてこのさとにいたり,すなわちくすがわにかよひ ,あひてひとつのかわとなり,なをひたがわといふ.あゆさはにあり,ついにちくぜん. ちくごなどのくにをすぎて,にしのうみにいる.

昔,この村に土蜘蛛を防ぐ堡(をき...石で造った壘(とりで))があったがこれは石 を使わず土だけで造っていた.そこで石無しのをきと言っていた.後の人が(石無しの郷 と言うべき所を)石井郷と言ったのは誤って言ったのである.この村には川があって名前 を阿蘇川という,その源は肥後の国の小国の山々で流れ流れて(杖立川−大山川)この郷 に到り,玖珠川と合流して日田川(三隈川)となり,筑前.筑後を過ぎて(筑後川),西 の海の有明海に流れる.

* 鏡坂(かがみさか)

鏡坂

昔者,纒向日代宮御宇大足彦天皇,此の坂の上に登りて,国形を御覧して,即ち勅り日く ,「此の国の地形は,鏡に似たるかも」と,因りて鏡坂といふ.斯れ,其の縁なり.

むかし,まきむくのひしろのみやにあめのしたしろしめししおおたせしひこのすめらみこ と,このさかにのぼりて,くにかたをみそなはして,すなわちのりたまわく,「このくに のかたちは,かがみににたるかも」と,よりてかがみざかといふ.これ,そのゆかりなり 昔,景行天皇がこの坂に登られて,展望なさった時,「この国の地形は鏡ににてるなあ」 とおっしゃられたので鏡坂と言うようになった.

注:鏡坂は日田市上野町にあり今は公園になっていて展望台が設けてある.

* 五馬山(いつまやま)

五馬山

昔者,此の山に土蜘蛛有り,名を五馬媛と日ひき.因りて五馬山と日ふ. 飛鳥浄原宮御宇天皇の御世,戊寅の年に,大に地震有りて,山岡裂け崩え,此の山の一つ の峡崩落ちて,温泉所々より出でたり,湯の気熾てあつく,飯を炊ぐに早く熟る. 但,一所の湯は,其の穴,井に似て,口の経丈余り,深浅を知ること無し.水の色は紺の 如く,常に流れず,人の声を聞けば,驚き慍りて泥を騰ぐること一丈余り許りなり.今, 慍湯と謂ふは是なり.

いつまやま

むかし,このやまにつちぐもあり,なをいつまひめといひき.よりていつまやまといふ. あすかきよみがはらにあめのしたしろしめししすめらみことのおんよ,つちのえとらのと しに,おおいにないふりて,やまをかさけくえ,このやまのひとつのたにくえおちて,い でゆところどころよりいでたり,ゆのきさかりてあつく,いひをかしぐにはやくなる.た だ,ひとところのゆは,このあな,いににて,くちのわたりひとつえあまり,ふかさをし ることなし.みずのいろはあいのごとく,つねにながれず,ひとのこえきけば,おどろき いかりてひぢをあぐることひとつえあまりばかりなり.いま,いかりゆといふはこれな 昔,この山に土蜘蛛(未開地人...朝廷の威光の及ばない種族か?)がいた名前を五馬 媛(いつまひめ)といったので五馬山と呼ぶようになった.

天武天皇の頃の戊寅の年に大地震があり,大規模な山崩れ等が起きて所々から大変温度の 高い温泉が吹き出した.中には一ケ所井戸の様な穴があいて紺色の水をした間欠温泉があ らわれた.それをいかり湯と呼んだ.

注:この温泉が天瀬温泉の湯山,桜竹,赤岩等と思われるが,間欠温泉の場所は特定でき   ない.

参考文献:「おおいた文庫 1 豊後風土記」著者:佐藤 四信 発行(株)アドバンス 大分 ,S55,7,19

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