「咸宜園跡」(かんぎえん)

**日田の文化財,遺跡シリーズNO.5 ** 

* 「咸宜園跡」(かんぎえん):昭和7年7月23日国史跡指定:淡窓2丁目2−13  咸宜園は幕末の儒者広瀬淡窓(1782−1856)の開いた塾である.

淡窓は文化2年(1805)24歳の時,豆田町の長福寺を借りて開塾したが,2年後の 文化4年(1807)26歳の時,中城川のそばにじゅく建てて,桂林荘と名付けた. 「休道」の詩はこの桂林荘時代に作ったものである.

 その後,文化14年(1817)淡窓36歳の時,桂林荘を秋風庵の前に写し,咸宜園 と名付けた.咸宜(かんぎ)とは「詩経」のことばからとったもので,「みんなよろし」 という意味であり,身分,年齢,学歴に関係なく誰でも入門できた.

その後,門弟の増加と共に塾を次第に建て増して,秋風庵の前の道の西側には考槃樓(こ うはんろう)などの西塾があり,道の東側には,秋風庵の他,心遠処(しんえんしょ) 遠思樓(えんしろう),講堂などが立ち並んでいた.現在残っているのは,秋風庵と遠思 樓及び西塾の車井戸だけである.

咸宜園は,旭荘(ぎょくそう),青邨(せいそん),林外(りんがい)等に受け継がれ, 明治30年まで約9年間続いた.

当時,全国68ケ国中,66ケ国から門弟が集まり,その数は4800名に及び,大村益 次郎,長三洲,清浦圭吾,横田国臣など,有名人が多く出ている.

 秋風庵は,淡窓の伯父月化(俳人)が,天明元年(1781)隠居家として建てたもの で,東西八間半,南北三間半,東南に二階を持つ茅葺(かやぶき)K建物である.

 淡窓は安政3年(1856)に75歳でここで没した.

遠思樓は淡窓の書斎で,嘉永2年(1849)68歳の時の建築である.もとは秋風庵の 東北東にあったが,一時他に移され,昭和30年現在の場所に再移転された.

車井戸は道の西側にあり,井戸の枠石がすりへっていて,往時の咸宜園の盛況をしのぶこ とができる.

** 尚,広瀬淡窓についての詳細は, 広瀬淡窓コーナー,「淡窓先生」

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