岳林寺 

**史跡探訪−3  岳林寺 ** 
  岳林寺は、北友田一丁目にあって、後醍醐天皇勅願の霊場で釈楚俊明極(そしゅん
みんき)の開山です。明極禅師は元の僧で元徳2年に来朝し京都に上がる途中日田を
通過した、ときの郡代大蔵永貞は、師を敬って厚くもてなしました。

後禅師は後醍醐天皇の勅問に答えて、豊の国日田は地形が唐土明州の報化県岳林寺 によく似ているので、この地に寺を建てることになり「松陽山岳林永昌禅寺」を創立 しました。

境内には、朝暾峯(後の山)、松風嶺(東の三本松)、花月崗(西の鳥越)、独木 橋(総門の橋)、双沼池(山門の前道の左右にある)など岳林寺十景とよばれるものが あり閑静そのものといった感じです。

岳林寺その1 日本 室町時代(南北朝時代)足利義満 岳林寺表入口山門には菊の紋章があり、棟木には大工後藤順治の銘 後藤順治は代々の襲名、山門は宇佐八幡宮の楼門と同じ工法、山門の 額面は「太平興国」とあり蕃世音(バン・セイ・オン)の筆による。 額縁は雲水龍の彫刻で刀法殊にすぐれ明国より船載されたもの 岳林寺は日田市郡民全体の総氏寺である。 大蔵永貞の寺造り 後醍醐天皇の書弊に応じて元から渡来した明極禅師(みんきぜんじ当時70歳)は 京へ上る途中日田に立ち寄った際日田の友田村(ともだむら)の展望が 故郷の報化県岳林寺のある所にそっくり似ていると感じていた。 禅師は当時の九州探題北条修理亮英時(ほうじょうしゅりのすけひでとき) に宿を慈眼山永興寺(じげんざんようこうじ)を指定されていた。 日田郡司大蔵永貞は(当時50歳位)明極禅師の接待役を仰せつかる。 明極禅師は元寇を振り返りつつ戦死者に黙祷を捧げた。 翌日明極禅師の話しから永貞は友田村に帯同し数か月友田村に滞在すべく 小庵を建てて住まわせた。 永貞は京に共に上る事となり道中800年昔魏国の高僧善正菩薩が渡来して英彦山 の岩窟に独居していた頃、鹿を追って迷い込んだ藤山村の狩人の恒雄に初めて 仏教を伝え、日本で初めてお寺を建てたのが日本の民間仏教の始まりだったと言う 事を話しながら京へ上った。(元徳2年初秋) 上京して夜後醍醐天皇(当時40歳)に御拝謁を仰せ付けられた。天皇は明極禅師に 「禅師は何を以って貴い人の生命を救おうとするのか」と尋ねられた。 禅師は「仏法の内で扇の要に当たる一番大切なところを以って救おうと思っている 」と答えた。 天皇は「それは具体的には」と尋ねられると暫く熟考した後「天の星々は北極星を 中心に廻っている様に日本の国体は天皇中心に統一される事が肝要かと思います。 又地上を見回せば四百余州の河川は全て東海(日本海)に流れ込んでいます。その様 に大陸の人々も日本国へ朝貢して来ます。これは天地を貫く自然の大道で有り、 是こそが二千年前に釈迦が予言した仏教東漸の本義を如実に表すものでございます」 この言に天皇は大層満足して禅師を明国に帰すのが惜しくなり、「これより日本国に 仏日?恵(ぶつにちえんえ)国師と号して日本に留まり仏法を普及する様に」と仰せられ 「好きな場所に寺を建造して進上するが何処が良いか」と尋ねられた。 禅師は「豊後の国日田郡渡里郷友田村が郷里の慶元府報化県岳林寺に似ているので そこにお願いします」と答えた。天皇は早速勅(みことのり)を日田郡司兼地頭職の 大蔵永貞に御下しになられた。 一,領内の友田村に明極禅師を開祖とする寺造りを命ず 二,寺の名は松陽山太平興国岳林永昌禅寺、略して岳林寺と称せよ 三,岳林寺は直指単伝の浄場で禅苑の規範は必ず南禅第一の上刹と相並ぶ様に行う べし 四、岳林寺は早く勅願の霊場として聖運の長久を祈り奉れ 五、岳林寺の法岐は王道の太平を致すべし 六、申し添えとして隣の玖珠郡にある安嘉門院御跡にも加勢させる と言うもので翌年元弘元年三月二十七日付を以って 一、後醍醐天皇の御尊像 二、後醍醐天皇の御辰翰 三、後醍醐天皇の御綸旨 四、後醍醐天皇の御茶器 五、後醍醐天皇の御草履 を御下賜になり御臨行の代わりの身印とされた ちなみに五、後醍醐天皇の御草履の片方は岳林寺の庭土を付け天皇に返納され 残された片方は誰ともなく煎じて飲めば腹痛に効くとの噂が広がり今では半分 しか残存しない。 これが後醍醐天皇が征西将軍懐良親王を命ぜられる前に西国九州の地の最初の 布告だった ★注:慈眼山永興寺は大蔵永季(おおくらながすえ)が建てた氏寺開山は百済の    高僧智元律師で吉野時代は天台宗    ★注:永貞の祖父永基(ながもと)は文永の役の殊勲で豊後の国安岐郷を賜り、    父永資(ながすけ)は弘安の役の大功で筑前の国三奈木庄を賜った。    幼少の頃大蔵永貞は母の勧めにより日田郡有田郷石松村に平等寺を建て    父や戦士の武運長久を祈った。 ★注:懐良親王(かねよししんのう 、1329年?〈元徳元年〉- 1381年頃 〈天授7年/弘和元年〉)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。 後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや) と呼ばれた 岳林寺その2 後醍醐天皇に気に入られた明極禅師は京都を離れられないので岳林寺には 法嗣の高弟草堂得芳禅師、愚谿得哲禅師、義秀禅師、士宣禅師等を使わし 造営に協力させた。 1330年頃の日本の状況は鎌倉幕府に対し不満を抱く後醍醐天皇は討幕計画を 試みる、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱 (元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢 ・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。 元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された 持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の 楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援 した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で幕府側 の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から 朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。 元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ 船上山で倒幕の兵を挙げる。足利尊氏は、京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題 を滅ぼした後、新田義貞は、稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を 滅ぼして鎌倉幕府が滅亡した。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する 帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始 (自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都 では護良親王とともに六波羅攻撃を万位主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、 上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。 尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに 出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。 と言った具合で、鎌倉幕府との戦いや各地の地侍の勢力争い天皇勢力、足利勢力等 の権力闘争が勃発して非常に世の中は混沌としていた、そこで明極禅師は、大蔵永貞に 対して「これらから日本は国内が情勢が不安定に陥るから誰に対しても没交渉ら徹せよ 、そうしなければ寺を建立する事は出来ぬ」と嘱した。 当時の寺の造営は勅命を奉じた者が造営とその費用全てを負担するのが常だった。 幸い大蔵家は日田郡450町歩、国東郡安岐郷40町歩、筑前国三奈木庄10町歩、筑後国 生葉庄、筑後国隈上庄、豊後国国東郡伊美郷77町歩の領地が有り経済的には充分で しかも天皇のお声掛りで玖珠郡の安嘉門院御跡の加勢が得られて心強いものがあった。 大蔵永貞は明極禅師に嘱された「没交渉」に徹して岳林寺造営に力を注いだ。 此の頃の詳細は「野望の憑依者(よりまし) 著者:伊藤潤」徳間書房 の歴史小説を 参照されたし 足利尊氏は武力が全てと考える師直と氏、素性、等出色が大事と考える尊氏の弟直義 を活用するがやがて二人は考えの違いから内紛(ヘゲモニー争い)を起こし共倒れする 。尊氏はこれ幸いと息子を立てて室町時代を設立する事になる。 高師直(こうのもろなお)と聞いて、どれだけの方が、その名を知っているでしょう か。南北朝時代を勝ち抜いた足利尊氏が、室町幕府を開くのはご存じだと思いますが、 その尊氏を支えたのが弟の直義と、足利家家宰(執事)の高師直です ・南北朝の戦いを史実に忠実に再現しつつも、独自の解釈を随所にちりばめている ・『太平記』にあるような勤王派視点でなく、足利政権視点で時代背景や政治状況を描いている 岳林寺 その3 1333年(元寇3年)2月25日後醍醐天皇は壱岐より脱出して伯耆の名和長年の 計らいで船上山に籠られた。3月になると大塔宮の密者が菊池、少弐、大友の 諸豪族に下った。菊池武時は少弐、大友と示し合わせて九州探題の 北条英時(たけとき)を博多に攻めたが少弐、大友らは寝返って北条方に付いた。 菊池武時は三月十三日博多で戦死する。この時大蔵永貞は北条英時より非常命令 で招集されたので、兵500を引き連れ馳せ参じ身の潔白を示したが、寺造りが 忙しいと断って直ぐに引き返して寺造りに専念した。 時を同じくして天皇より永貞へ密使八幡彌四郎宗安が使わされたが博多で囚われて 首を刎ねられた。この事も知らずに永貞は没交渉で寺造りに専念しいたのである。 只、幸運にも足利高氏(後に尊氏と改名)の幕府への裏切りによって 五月七日…六波羅が陥落、同日新田義貞が東国上野に旗揚げ 十一日……六波羅探題北条仲時以下が近江の番場で自刃、金剛山の寄手数万が千早城      (楠木正成軍(皇軍))の囲みを解いて奈良へ敗走 十二日……新田義貞が鎌倉軍を武蔵野に破り、15、16、17日鎌倉攻勢を掛けた 十八日……後醍醐天皇の車駕が伯耆の船上山を発つ 二十一日…新田義貞が稲村ケ崎より鎌倉府内に突入 二十二日…北条高時その他一族全滅して鎌倉幕府滅亡 二十五日…九州探題北条英時が少弐、大友に寝返られて戦死、長門探題は降伏 三十日……後醍醐天皇の車駕が兵庫に到着 六月二日…楠木正成を先頭に後醍醐天皇京都に還幸した。この時大蔵永貞に鎌倉      没落の報が届く。       後醍醐天皇中輿の御事業をあげさせるや、明極禅師を鎌倉より京都に詔勅して 瑞龍山興国南禅師13代官庁とし後、東山の建仁に移り、後に広厳寺に退く。 この時大蔵永貞は肥後權守となり皇位も楠木正成と同位同官の従五位上左衛門尉 となった。 この時の詔に五、岳林寺の法岐は、王道の太平を致せとあり「太平興国岳林永昌禅寺」 と称した、 しかし、岳林寺の建造はまだ前途多難で、1334年(建武2年)論功行賞の不平等の理由で 中興の大業が崩れて7月北条高時の子時行が信濃で兵を起こし鎌倉を攻めると、足利直義 は後難を恐れ洞窟内に幽閉していた護良親王を殺して逃げた。 この時兼ねてより源氏の再興を願っていた足利尊氏は天皇に無断で兵を東進して 弟の直義を助け鎌倉を攻め北条時行を滅ぼし、鎌倉に居座って武家政治を始めた。 後醍醐天皇は公家政治を望んでいたので新田義貞に足利尊氏の征伐を命じた。 初めの内は箱根方面で新田義貞軍が優勢であったが竹下方面で塩谷高貞、大友貞載、 野上資頼ら官軍の主要だった二股武士達が足利尊氏、直義側に寝返り新田義貞軍は 京都へ敗走した。 一方奥州の官軍側北畠顕家は足利軍を追撃すると言う混乱状態に 陥った。建武3年改元して延元元年(1335年)天皇は難を比叡山に避けられた。 この時明極禅師は広厳寺に隠退した。 岳林寺 その4 1335年(延元1年)1月11日三種の神器を奉護して東坂本に天皇の行幸をお迎えした 阿蘇大宮司の惟時の子息惟直はその功により日田の荘の地頭職を命ぜられた。 惟直はこの時日田の荘の東端の五馬村塚田と西端関村に阿蘇神社をたてた。 又、官軍の結城親満は竹下の合戦で寝返った左近将鑑大友貞載を刺し殺す。 豊後守護職式部丞大炊助大友氏泰は寝返って賊軍となる。楠木正成や名和長年 は北畠顕家、新田義貞らと共に足利尊氏、直義兄弟の大軍を京都に入れた 後四方を包囲して攻撃し打ち負かした。 足利尊氏は命からがら地元の東方でなく西方の神戸へと逃げそこから豊後の 鞆の浦で赤松円心の画策により三宝院賢俊の力を借りて持明院統の院宣を受け 賊軍の汚名を回避した。 1335年(延元1年)2月29日足利尊氏は筑前葦屋の浦に上陸するも手勢300騎足らず この時大蔵永貞の手勢500騎は動かず岳林寺の造営に力を注いでいた。 足利尊氏は元来躁鬱の起伏が激しい性格であり、この時自害を試みるも弟直義 に源頼朝が僅か7騎で盛り返した経緯を聞かされて制止された。 多々良浜の一戦では以外にも神田、松浦の党を味方に付け九州の官軍の将 菊池武敏の大軍を打ち破り、大宰府に入って九州中を風靡するに至った。 この背景には源氏直流の大将と言う事,鎌倉の執権赤橋守時は尊氏の嫁兄で 九州探題北条英時は義兄弟だった事や報償としての知行地の無い尊氏は、 地侍達に力で奪い取る事を黙認したので力のある者達は尊氏方に付いて一旗 挙げようと考えた者が多数いたと言う事が多分にある。 この時尊氏達に組さなかったのは没交渉で岳林寺造営に専念していた大蔵永貞、 玖珠郡安嘉門院跡の勤皇家、豊後国各郡に散在していた領地を豊後守護職 大友氏泰に押領された大友貞順やその叔父大友秀直と比叡山延暦寺派の 稙田村霊山寺と玖珠の断株山高勝寺(洪樟寺とも書く)であった。 此の事が大蔵永貞に災難となって降りかかってくるのである。 岳林寺 その5 後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、延元元年 「建武3年(1336年)」にまだ幼く得度していた懐良親王(かねよし)8歳を環俗ざて 征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。 親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島(現在の愛媛県松山市忽那諸島)へ渡り、 当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の援助を得て数年間滞在した。 没交渉で寺の建造に力を注いでいた大蔵永貞であったが、九州に落ち延びた足利尊氏軍 が次第に勢力を伸ばしてくると尊氏は延元三年(1337年)三月十三日に一式範氏 (後の九州探題)、弟頼行、佐竹重行、藤原宗能(むねよし)らに大宰府進発を命じ 西の方より日田、玖珠を攻めさせ、十五日には豊後国守護職大友氏康に出軍を命じ 東の方から日田、玖珠をせめさせた又十六日には都甲惟世(つこうこれよ)他北九州の 軍勢、野上、深堀、平林、綾垣、近地、野仲らに北の方から日田、玖珠を攻撃させ 南からは二木義長の大軍で天皇派の菊池武敏を追いまくらせた。 さしもの大蔵永貞も筑前、筑後、豊後の年貢領米を横領されて、本陣を日鷹城に 置いて反撃に出る。又、今まで纏まりに欠けていた天皇方は後醍醐天皇の息子 満良(町良まちなが)親王を奉じて来て永貞と合流するも多勢に無勢敗走して 大原山、元宮原、会所宮、法恩寺、玖珠川を渡り牧原、女子畑と転戦し相当の 戦死者を抱えた又、町良親王も戦死された。町良親王は御陵神社に祭られ現在は 女子畑神社に合祀されている。 大蔵永貞は巧みに姿を隠して菊池、阿蘇、恵良、稙田ら皇軍と共に玖珠城 (断株山洪樟寺)に籠城する事になる。(1337年)四月十九日包囲軍は総攻撃を加えた ものの防備が固く耐え忍んだが、日増しに攻撃がきつくなっていった。 (1337年)四月二十六日大宰府を本陣の尊氏のもとに赤松則祐律師と得平因幡守秀次 が馳せ参じて「一刻も早く上洛して」と知らせてきた。それによると、「新田の 軍勢が備中、備後、播磨、美作に満ちているが城を攻めかねて気疲れ、兵糧が 尽き欠けている。 将軍が今大軍を以って上洛と聞けば新田の軍勢はひとたまりもない。逆に白旗城 が落ちれば他の城も雪崩を打って落城する事になる。そうなると大軍をもってしても 上洛は叶わない事になる」との事であった。 足利尊氏は果断即決して九州の事を一色範氏に一任、弟の一色頼行は大友、少弐と 共に日田玖珠の攻略を仁木義長には菊池追撃を命じて四月二十八日博多港を出帆 五月一日安芸の宮島に船を寄せ、持明院の院宣を受けて海陸両方面から上洛を 目指した。 一方後醍醐天皇は京都へ尊氏が上洛を目指しているとの報に驚き軍議を開くも 纏まらず、楠木正成の「戦況が思わしくないので比叡山に行幸して、一時尊氏軍を 京に入れて四方より攻める他に方法無し」と進言するも公卿衆は聞く耳を持たずに 却下された。 楠木正成は(1337年)五月十六日天皇に御暇乞いを申し上げ、敗戦覚悟で息子の正行 を河内に帰し京を発ち湊川に布陣した。五月二十四日正成は近くの広厳寺の明極 禅師に「生死交謝(こうしゃ)の時は如何」と問う明極禅師答ふ「両頭?に載断すれば 一剣天によって寒まじ(すさまじ)」と答ふ(生中死有り、死中生有りの意味) 正成問う「畢竟(ひっきょう)そもさん」禅師「喝!!!」と絶叫「汝徹せり」 正成は昔ある僧に「道を以って戦に勝つには如何」と問えばその僧曰く「至善を兵と せよ」と申されたと話した処禅師は「それで良い」と答えられた。 翌二十五日足利尊氏、義直兄弟は五十万の大軍で海陸両面から攻撃、迎える新田義貞 二万騎で和田岬に陣取り海軍を防ぎ正成七百騎で湊川に陣を構えた。新田義貞は 尊氏の計略にかかって和田岬を東上する、その間尊氏の中軍が和田岬より上陸して 湊川に陣する正成軍の背面を突き挟み撃ちに合う。 正成軍は弟の正李と図って正面を倒して後背面と戦う作戦に出る。敵将足利直義は 馬を射られて落馬する、正成ここぞとばかりに首を取ろうとするも邪魔が入って取り 逃がす。 戦いは六時間に及び敵兵を倒すも次から次へと敵兵は湧き出でる一方味方は僅かに 七十三騎に激減し、近くの無為庵に入り弟正李と刺し違えて自刃した。この時楠木正成 には十一ケ所の創が有り享年四十三歳であった。 明極禅師は無為庵に入り正成らの遺骸を拾い広厳寺に霊像を刻んでお祀りした。後 に広厳寺の事を楠木寺と呼ぶようになった。 此の訃報は明極禅師を通じて岳林寺にそして玖珠城の大蔵永貞にも伝えられた。 悲嘆にくれる中彼らはゲリラ戦へと打って出るが肥後の菊池武敏、阿蘇の恵良惟澄の 援軍も届かず七月、八月とゲリラ戦を挑むも芳しい成果は得られなかった。 此の頃中央では新田義貞は敗走して京に入り、後醍醐天皇は比叡山延暦寺へ退避 された。(1337年)六月五日千種忠顕が西坂本雲母坂で戦死、七月十三日名和長年京都 で戦死、八月十七日四条隆国が鎮西宮の令旨を高野山に伝えて懐良親王(かねよし)を 九州に向かわせる準備にかかる。 九月に入ると玖珠城の状況は困窮を極める状況になるも九月十八日に後醍醐天皇の 征西将軍御下向の御綸旨が九州の皇軍に伝えられた。 (1337年)延元元年(建武三年改元)九月二十七日岳林寺開山明極禅師は京都建仁寺の 方丈にて遷化(せんげ:逝去)なされた。 (1337年)十月九日後醍醐天皇は諸皇子を諸国に下す八歳の懐良親王(かねよし)を九州に 下された。翌十日天皇は尊氏の乞いを受け入れ京都へ環幸する。 一方十月十二日玖珠城は敵の大々的夜襲に耐え切れず落城する。大蔵永貞は頭髪を 剃り落として出家遁世の身となり行くえをくらます事になる。 岳林寺 その6 大蔵永貞には一人の息子がいたが七つの時の春の頃英彦山の子取り天狗に取られて 行方不明になっていた。永貞は息子を探していたがなかなか見つからないままで あった。出家した永貞は息子を見つけ出してあとを継がせ何とか寺の造営を完成させ たいと考え、都会に行けば巡り会う機会が有るだろうと思い玖珠を抜け出して京都 へ向かった。 京都に着いて清水寺にお参りした後、門前の者に「何か面白い見物は無いか」と尋ねた ところ「花月と言う者が居て面白い踊りを舞うから、その者を呼びましょう」と言って 永貞を花月の居る近くに誘った。すると向こうから花月が弓矢を携えて問わず語り 乍らやって来て花月と言う名の謂れを語り始めた「花月の月は春月、夏月、秋月、 冬月の月で、花月の花は春は花、夏は瓜、秋は果、冬は火で一年中かである。 しかも因縁生果の果であるからこれを一生の名前とした。それで皆が花月と呼ぶ様 になった」と言う。 さらに清水寺の縁起を曲舞いに作った歌をリクエストすると花月は歌って聞かせた。 永貞は良く観察すると幼い頃別れた我が子の面影が残っていたので父親の名乗りを すると花月も気随て喜びあった。門前の者が八撥(やつはち★注1)を打ちて連れ帰る様に 告げると花月は八撥を打ち歌いながら簓(ささら★注2)を擦りて舞を舞った。 こうして花月は父永貞と仏道修行に出た醍醐雲林院に住み花月の本名大蔵永敏に改め 環俗させ、家督相続の手続きを済ましして、永敏に岳林寺の造営を託して一人日田に 帰らせ永貞は一人京都に残り陰から助成する算段を講じた。 後醍醐天皇は(1340年)延元四年八月十六日吉野にて風熱に侵されて崩御なされた。 懐良親王(かねよし)は(1337年)延元元年十二月三十日讃岐から伊予の忽那島 (くつなじま)に渡り(1340年)延元四年迄四国鎮圧に苦しむも暦応4年/興国2年(1341年) 頃に薩摩に上陸。谷山隆信居城である谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙 しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。 ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、貞和4年/正平3年(1348年)に 隈府城((菊池十八城 と呼ばれる城砦の一つ)に入って征西府を開き、九州攻略を 開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いて おり、これらと攻防を繰り返した。 菊池に近い日田市(旧日田郡)津江の勤皇家長谷部信雄は1339年(延元三年十一月) 兵藤村を菊池氏の建立した玉名郡の広福寺に寄付した。広福寺の住持大智禅師は 宗尊親王の御子宗治直覚と言える玉子で後醍醐天皇の御猶子で1337年(延元元年) 五月丹波平定に向かわれ、翌1338年(延元二年)夏頃九州に派遣された。 只、五和の近衛神社やその近くの鶯の滝、又、小山に皇子ケ淵、その上の皇子神社 との関係に付いての関係は不明である。 待女キノを祭った内河野原の松尾神社(きのう様で有名)も南北朝ゆかりと伝られ、 高瀬の琴平町普門寺には懐良親王(かねよし)のお墓と御位牌が現存している。が、 これは四国平定に難儀したので特に遣わされたものらしい。但し、豊鐘善鳴録には 肥後州宇土の人と記して有りその辺が不明である。 又、長谷部信雄は1339年(延元三年)津江庄兵藤村に大平山兜率寺(とそつ)を建て 大智禅師を迎えて開山とし、中津江村伝来寺も同時に建てたものと言う。 此の事を伝え聞いた大蔵永貞は京に居て岳林寺の造営に力を注ぎ京都の南禅寺にある 少林塔と鎌倉の建長寺にある雲釈塔の二ヶ所に分蔵されている開山明極禅師の 爪、髪、骨の分譲を願い出て岳林寺の境内に墓地に移し葬りお墓を建て木像を刻んで 開山第一世の追悼会を開いた。 明極禅師愛用の袈裟錦緞(きんだん)の七条と禅師がお祀りしています。楠木正成の 御霊像とを譲り受け岳林寺に送り後醍醐天皇の尊像の側近に安置した又岳林寺の 本尊の弥勒菩薩の他に釈迦の像や智慧仏の文殊菩薩と行願仏の普賢菩薩を釈迦仏の 左右に侍らせる為に日本一の大仏師と称された法印幸与と備前坊幸意の親子を探して 日田の岳林寺に伴い三大仏像の製作を依頼して完成した(現存仏像)。 同時に後醍醐天皇の勅命である規模南禅寺大の岳林寺の建造も進捗し東は吹上観音堂 西は内田の摩崖楚字、南は花月川の南方十二町の薬師堂北は松風嶺の頂に及ぶ広範囲 なものである。元徳二年(1330年)の拝勅依頼十三年目に及んで康永二年(1343年) 十月二日に遂に竣工させる事となった。 岳林寺第三世愚谿得徹禅師丁度二十五歳の年で前住は第二世得芳禅師、四世義秀 第五世士宣禅師と続き明極禅師の高門の四天王の尽力もあって完成したのである。 ★注1:やつ‐ばち【八撥】名詞 @ 羯鼓(かっこ)の別称。 ※謡曲・花月(1423頃)「いつものやうに八撥をおん打ち候ひて皆人におん見せ候へ」 A 羯鼓を首から胸にさげて、打ちながら踊る遊芸。中世、巷間芸能として行なわれた。 ※謡曲・丹後物狂(1430頃)「簓(ささら)八撥なんどと申すことは、あの鉾のもと囃す 京童の芸でこそ候へ」B 太鼓などの曲打ちをすること。   ★注2:ささら(簓)とは、竹や細い木などを束ねて作製される道具の一つである。 洗浄器具 として用いられるほか、楽器や日本の伝統的な大衆舞踊の際の装身具の一部としても 用いられる。また、これを伴奏楽器として用いる音曲や舞踊を「ささら」と称する ことも多い。 岳林寺 その7 康永三年(1343年)春永貞は永敏を通じて第三代住職愚谿禅師と相談の上、落慶法会を 執行する事となった。 ところが以外にも足利尊氏から岳林寺修補の墨付と石仏六地蔵尊の献納があった 尊氏は夢想国師の薦めにより後醍醐天皇の御冥福をお祈りする為京都に天龍寺を 建てる事としたのだが戦乱の世に寺の建立に八年費やした経験から寺の建立が 如何に難儀な事かを経験して地方の小さな日田郡司が十三年掛かって建立した事に 感動した結果の所業と思われた。 花月永敏は父と再会出来た事や岳林寺が完成した事は京都清水寺の観世音菩薩のお陰 として境内にまつり聖寿院と称しここを基にして三十三ケ所の日田巡礼の礼所を造 った。 康永三年(1343年)春四月八日仏誕神灌仏花祭の日に九州唯一の勅願寺岳林寺の落成 竣工式典が盛大に行われた。 この時の門前町が十二町で、奉られた十二神は薬師経に出る守護神で 一、毘羯羅大将(本地釈迦、三鈷(さんこく)を持つ) 二、招社羅大将(本地金剛手、太刀を持つ) 三、真達羅大将(本地普賢、宝珠宝棒を持つ) 四、真虎羅大将(本地薬師、斧を持つ) 五、波夷羅大将(本地文殊、弓矢を持つ) 六、因達羅大将(本地地蔵、鉾を持つ) 七、珊達羅大将(本地虚空蔵、螺貝を持つ) 八、??羅大将(摩利支天、矢を持つ) 九、安底羅大将(本地観世音、宝珠を持つ) 十、迷企羅大将(本地阿弥陀、独鈷を持つ) 十一、伐折羅大将(本地勢至、劔を持つ) 十二、宮比羅大将(本地彌靱、太刀を持つ) 十二町村は岳林寺境内で花月川は岳林寺の境内を貫流し南門に薬師堂があった。 その薬師様を守護する十二神将が左右に並べられていて、一町に一将で東西の長さ が十二町あった事に由来して十二町村の名が付けられた。 日田の東に大原八幡宮の門前町桜町があり、後に日田は豊臣氏の蔵入地(直轄地)と なり代官、宮木長次郎が来郡した。日隈山寺にあった真光禅寺を現在の隈界隈 (現寺町)に移し寺跡を城地として日隈城を築いた。と同時に田島村の大原社前の 町並みを日隈城下に移して隈町と名づけた。 日田の西に岳林寺の門前町として十二町が有り十二町瓦(新原瓦)が初めて焼かれ 後に友田村から丸山町が出来た。 貞和元年(1345年)七月二日永貞は京都醍醐雲林院にて大往生を遂げた享年67歳 法名:永昌寺院殿大覚法元大居士 其の後の日本の情勢の概略は以下の通り 観応元年/正平5年(1350年)、観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏と その弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入る。筑前の少弐頼尚が これを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となる。 しかし、文和元年/正平7年(1352年)に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。 これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は 針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝する。さらに懐良親王は菊池・ 少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。 一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光、赤星武貫、 宇都宮貞久、草野永幸、西牟田讃岐守ら南朝方は延文4年/正平14年(1359年)の 筑後川の戦い(大保原の戦い)でこれを破り、康安元年/正平16年(1361年)には 九州の拠点である大宰府を制圧する。 幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経・渋川義行を九州探題に任命するが九州制圧 は進まず、貞治6年/正平22年(1367年)には幼い3代将軍足利義満を補佐した 管領細川頼之が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣する。 その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため 九州は平定される。懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り 筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。 完 参考文献:中島市三郎 著 日田太平記 岳林寺物語      「野望の憑依者(よりまし) 著者:伊藤潤」       日本の歴史 NO.9 南北朝の動乱 中央公論       日本の歴史 別巻 NO.5 年表  中央公論       ウィキペディア サイト コトバンク       hita.ne.jp 亀山公園の歴史的背景
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