「永興寺仏像(ようこうじ)」

**日田の文化財,遺跡シリーズNO,4 ** 



*「永興寺仏像(ようこうじ)」:城町2丁目 慈眼山収蔵庫(じげんざん):

                  昭和25年8月29日 国重要文化財指定

@ 永興寺(ようこうじ):

開基は新羅の僧,智元で,延久(1069−72)年間に,日田郡大領大蔵永季(おおく らながすえ)(*注:階層51,日田どん参照)が父永興(ながおき)を弔うために建立 したと伝えられている.代々大蔵氏の尊崇をうけて,所蔵の仏像8体も,大蔵氏との所縁 を物語っている.

@ 木造十一面観音立像:像高さ92CM:

 永興寺の本尊で,鎌倉期の作である.全体としての均整,刀法の冴え等,名作といわれ ている.光背,台座は後補.

@ 木造兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてん):像高217CM:

 大蔵永季が延久三年(1067)16才で都の痩ニ勢の侵入を防ぎ,さらに緒方三郎, 臼杵次郎等の豊後武士団とともに太宰府を攻めて,九州から平家を追い落とした勇将である. 後に頼朝から厚くその功を賞された.文治三年(1187)壇ノ浦の戦いの翌々年, 仏恩に感謝の念から奉納したものであろう.頭部と胴は一木造りで,背面と両手を矧   (は)いだもので,眼は彫眼である.鎌倉初期の作である.

@ 木造四天王立像

四躯の中の三躯には,胎内背部にそれぞれ次の銘がある.

持国天 :像高 101.5CM:南都興福寺大仏師康俊作 小仏師子息康成 俊慶

                元享元年カノトノ酉 10月17日

増長天 :像高 104.5CM:銘なし

広目天 :像高 106 CM :南都興福寺大仏師康俊作 小仏師子息康成 同俊慶

                元享2年7月  日

多聞天 :像高 106 CM :南都興福寺大仏師法眼康俊作 小仏師子息康成 俊慶

                元享元年カノトノ酉 10月10日

 これらの胎内銘で四天王像は,元享元年(1321)から翌2年にかけて,奈良興福寺 の三人の仏師によって作られたことがわかる.

 四躯ともに桧材の寄木作りで,首は挿首であり,眼は玉眼であったらしい(現在は彫眼 ).この頃大蔵永貞は岳林寺を建立し,その子永敏は岳林寺に釈迦三尊像を寄進している が,ともに大蔵氏の繁栄を物語っている.

 文安元年(1444)郡司職大蔵氏が断絶し,姻戚関係から大友氏が郡司職をついだが ,これも天文17年(1548)に滅んだ.その上戦国時代の動乱や太閤検地等は,永興 寺に大きな打撃を与えたが,江戸時代も永興寺諸仏への信仰は続けられ,殊に十一面観音 は33年ごとに御開帳をして信者の参詣が行われた.

@ 木造毘沙門天立像: 像高 167CM:

 桧材の彩色像で,胎内の胸部から腹部にかけて,文治3年歳次丁未 五月二十八日己巳

 大蔵永秀 生年三十五

の胎内銘がある.永秀は永季の曽孫にあたり,寿永二年平家が木曽義仲に追われて太宰府 に落ちて来た時に,櫛崎城によって平家勢の侵入を防ぎ,さらに緒方三郎,臼杵次郎等の 豊後武士団とともに太宰府を攻めて,九州から平家を追い落とした勇将である.

後に頼朝から厚くその功を賞された.文治三年(1187)壇ノ浦の戦いの翌々年, 仏恩に感謝の念から奉納したものであろう.頭部と胴は一木造りで,背面と両手を矧   (は)いだもので,眼は彫眼である.鎌倉初期の作である.

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