今から1300年あまり昔、文武天皇の白鳳2年、日田都の東方、靱負郷岩松ケ峯のあたり に、何やら得体の知れぬものが現れた。 村人が、恐るおそる伺いを立てると、「わたしは、宇佐の鷹居の宮にいる神だ」 と仰せられた。さては、八幡神であったかと、人々は大喜びで、早速お社を造りお祀りした。 ここの峯の石が、馬の鞍の形に似ていたところから、この社を後に鞍形峯(くらがたお)神社と称し た。馬原の鞍形峯神社がそうである。 それから100年ばかり経た貞観元年(859)、求来里杉ケ原の大杉の梢に、不思議な ものが現れ村人を驚かせた。人々は、杉の木の下に集まると、こわごわ伺いを立てた。 「あなた様は、一体どなたでございましょうか。もしかして神様でございましたら、どう かこの他に在って、我々をお護り下さい」すると、そこに居合せた村の女が、突然大声でしゃべり出した。 「わしは、鞍形峯におる神だ。あそこは路が険しく、人々が大そう難儀をしていて、心苦 しく思う。この地は何かと便利だから、今後ここに居てみなを護る」 喜んだ村人の手で早速社は建てられた。しかしそれより数十年の後、時の日田郡司、 大蔵永弘の夢枕に、神様はお立ちになった。 「今の処はどうもよくない。ここより少し北の方にとてもよい所がある。そこに社を造っ てくれ」 朝、目が覚めた郡司が、昨夜の夢の事を、ぼんやり考えて居る所へ、樵夫(きこり)たち がどやどやとやって来て、杉原の北の岡こある大きな木の梢に、白いものがかかっている、 と口ぐちに申し立てた。郡司は、夢が正夢だった事に、今更ながら驚いた。 早速、礁夫たちに案内させて行って見ると、もう白いものは消えて居たが、その木だと云う大木 のあたりを、注連縄(しめなわ)で囲み宮大工たちを呼び集めると・新しい社の造営にかかった。 新しい社殿は、宇佐八幡を模したものだと云う。 社殿が完備したのは、延喜18年(918)のことである。新しいお宮は、大原八幡宮 と呼ぶことになった。 相撲の神様、日田どん大蔵永季が、相撲の節会の勝額を奉納したのもここである。 寛永元年、藩主石川忠總により、社殿は現在の場所、日田市田島町に遷され、求来里の 方を元宮又は元大原と云う様になった。 (年代は大原神社所有の資料に依る) (小迫町・泉 淑子) ★☆★☆元宮神社と宝篋印塔 ★☆★☆ 元大原宮は貞観十三年(871)日田郡司大蔵氏が八幡宮をまつったところで、寛永 年(1324)現在の田島へ還るまで、750年間の社地であった。 現存する多くの石造物の中に、宝篋印塔二基がある。宝篋印塔は経文などを収めた供 塔で、隅飾突起をつけた笠など形態に特徴がある。 一基は基礎と塔身のみが残り、塔身に刻まれた梵字は格調が高い。基礎には 「豊後国日田大原宮石塔壱基座 奉書写一乗妙典 右志者為天長地久願□□繁昌万民快楽也 大願主沙弥西国 尼妙仙 貞和三年(1347)八月十二日 大工一乗」 の銘があって、日田最古の在銘石塔である。 他の一基はほぼ完形で、高さ2.6メートル、銘はないが上記の塔よりも年代が下がる 尚、日田市内には他に数多くの宝篋印塔が存在している。 ★☆★☆ 元宮神社のおまつり ★☆★☆ 毎年十月九日に "おくんち"の祭りがあり、当社最大の行事となっている。 前夜祭として、八日に御輿が下ってきてその前で昔は野芝居が行なわれていた。 この御輿は、大原神社のものと同じ位にりっぱなものである。 今は、青年と子供会の共催で「子ども相撲大会」が行なわれている。 (神来町 伊藤 政男氏談) 参考文献 郷土 みよし 郷土三芳編纂委員会 昭和62年3月 日田市三芳公民館発行 |