** [淡窓 先生]シリーズ(先生編)NO.10



 露と消えた妹の,おもかげをしのびながら,求馬さんは,八月,長福寺学寮から,豆田 一丁目の大阪屋林左衛門の家にうつりました.八畳と六畳の間借りです.

 安眠に伊織,その他四五人の子どもたちとすみこみました. [なんとか,名前がほしいなあ.][うん,大阪屋学寮じゃおかしいし.][ねえ,求馬 さん,なんとかつけて下さいよ.]と弟子たちがせがみます.

[そうだなあ,では学問を章(あきらか)になすところという意味で,成章舎とつけよう か.][成章舎,いいなあ.]と,みんな喜びました.

まだ先生とよぶものはありません.[求馬さん,求馬さん]といって,友達あつかいです . ある日倉重湊が成章舎をたづねました.おどろいた伊織が,気をきかして,[あの. .求馬さんは,今日は,代官所ですが.]といいました.

[なに..求馬さん,求馬さんとはなんだ.師匠ではないか,なぜ先生といわぬ.これか らは,きっと先生と申し上げよ.よいか.]とさとしました.それから皆,ようやく先生 とよぶことになりました.

それを聞いた三松寛右衛門は,[そうだ,先生の食料は,弟子たちが出し合うのがほんと うだ.]といい出しましたので,皆その意見にしたがいました.

 こうして,ようやく,師弟(先生と弟子)のけじめがつくことになりました

 成章舎にうつって二ヶ年,学生は,二十人余りにもなり,とおく中津や,大分からも ,入門するものがありました.[どうもせま苦しいな,梅雨にでもなったらたまらぬぞ. ]ということから,五月,豆田裏町に,新しく塾をたてることになりました.

 まったく伊予屋儀七のきもいりです.儀七は,宮太夫手島家の人でありますが,土地を 出してくれ,建築費の半分もうけもってくれました.儀七は先生の門人ではありません.

しんるいでもありません.ただ長福寺学寮のころからしたしくなったというにすぎません .[私になんの徳があって,このようなえんじょをしてくれるのであろうか.実に感謝の いたりだ.]と先生は書きのこしてあります.

のこりの費用は,先生と弟子たちが出し合いました.

諌山安民は,真っ先になって働きました.門人二十名をひきつれて,大工のせわから,用 具の買いだし仕事のてつだいなど,先生にしんぱいをかけてはならないと,よく気をくば って働きました.

門人たちは[われらの塾だ]というので,みんな力をあわせて働きました. [ああ,苦労をかけてすまないなあ.]と先生はいくたびか心の中でわびました.

そのかいあって,みごとに家はたちました.四部屋,三十四畳の二階つきです. 六月入梅のころ,皆は気の香りも新しい塾にうつり,[これからだ]といきごみました.

先生は[桂林園]と,名付けました.

 先生の居間は,東むきの六畳です.かきねをあらう小川のささやきに,明けの明星が美 しくまたたくころ,[カチカチカチ]と拍子木の音に,桂林園のゆめがやぶられます.柴 の戸をあけて出てみますと,おう,野も,里も,真っ白な霜です.

[あっ!冷たい.]という中を,ジャブンと手桶に水くけ音,ポキンポキンと薪を折る音 がしたかと思うと,はや,かまどから,朝げの煙が立ちのぼります.

柴扉出暁  霜如雪   (さいひあかつきにいづれば しもゆきのごとし)

君汲川流  我拾薪   (きみはせんりゅうをくめ われはたきぎをひろわん)

やがてきびしい朝のべんきょうがはじまります.こうして同じ釜の飯を食い,一つのとも しびのもとに,相親しみあう塾風をしたって,やがて九州の各地から,入門してくるもの が多くなりました.

こうして桂林園に心そそぎながら,先生は病気とたたかわねばなりませんでした. よく風邪をひきました.一年のうち半年は風邪でくらしたといいます.

わけても二十八才の六月の眼病は,筑前の田原という医者にかかったのでありますが,四 十日もつとめたあげく,[この眼病は,君の体の弱いところからきているのだ.だから急 になおすことはできぬ.先ず,体をつくりなさい.]とすてられてしまいました.

 先生はさびしく塾に帰ってきました.それからは,冬になればわるくなり,夏になれば いくぶんよくなる.と言うぐわいでありましたが,ついに眼病は,先生一生のなやみとな ってしまいます.

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