** [淡窓 先生]シリーズNO.11



 それはそれとして求馬先生は,二十九の秋(九月二日)結婚しました.花嫁は合原(ご うばる)家のむすめナナさん(20)です.

そのころ桂林園の学生は六十人をこすようになっていました.よそ目には,身を立つるの 希望とともに,新婚のゆめは美しくかがやいてみえました.

おうちの人はもとより,学生たちまでも,[先生おめでとう]と祝ってくれます.先生は,[秋がいてくれたらなあ]とおもうのでした.と,その瞬間,先生ははっとむねをつかれました.

[そうだ妻への責任かある.]こう思った先生は,けっしんして彦山にのぼりました.

それは,かって[病のよくなることを願わば,彦山の神にいのれ]と,夢におつげをうけ ていたからです.

 先生は善助を道案内に,二,三の塾生をつれて,彦山ごんげんにまい りました. 岳滅鬼の坂はガクガクとして,二百年の杉の密林は真っ暗くら,善助に道を まちがえられて,いくたびかころび,起きようとするところを,山ヒルにすいつかれて, 血はだらだら,さんざんなめにあいながら,やっと升屋勘右衛門の宿につきました.

 翌朝はいよいよ,権現を目指してのぼりました.そのけわしいこと,鉄のくさりにとり すがりながら,あえぎあえぎのぼりますと,雲か霧かふきつけて,さっと体を吹き飛ばさ れそうです.と,みるまに横なぐりの大雨.先生は,岳滅鬼で飲んだ水があたって,腹痛 をおこしていましたが,歯をくいしばってこらえにこらえて,やっとのこと権現の宮にた どりつきました.

  [どうぞ私に,健康をおあたえください.]と,心ゆくまでいのり ました.

かねての願いをはたすことができて,先生は,はるかに有明の海をながむることができま した.

 彦山にいのった先生は,気をあらたに,桂林園につくしていますと,その翌年の二月, とつぜんお母さんがなくなってしまいました

. なんの病気かわかりません.二十三日に 気絶したまま,四十八才をもって,息をひきとってしまいました.

 お母さんの棺をかついで,野べにおくろうとする時,泣けて,泣けてわらじのヒモをむ すべません.[ああ,このとおり,わらじのヒモをむすべなかった夢を見たが,あれはお 母さんの死のしらせであったか.]と思うと,またかなしさこみあげて,どうしてもむす ぶことができません.

 長い間,くろうをかけとうしたきり,今からは夫婦そろって孝行 もしようぞと思うやさき,あえなく死んでいったお母さん.[ああ,木靜まらんとすれど ,風やまず.]

お母さんにはあれほどやかましかったお父さんも,気をおとされたのか,家を九兵衛にゆ ずって,まもなく隠居(六十五)してしまいました.

 母すでになく,父は隠居して,家は弟がやっていってくれる. この上はかねての願い ,しづかな,田舎でくらしたい.それには秋風庵のほとりがよい.

 幼いころの思い出がある.伯父さん,伯母さんにもしたしくつかえたい.そして塾もそ の近くにうつしたい,朝夕塾生を見まもることもできよう.

そうけっしんした求馬先生は,三十六才の二月,秋風庵の西に家をたて,二十三日の母の 日に,新しい心でうつりました.

そして,まる十年の桂林園をたたんでそのとなりにうつし,あらたに,かん宜園と名づけ ました.

 かん宜園とは,[みんなよいところ]という意味で,それぞれの個性のちがったものた ちが,それぞれに天分を伸ばして,みんなよろこぶということであります.

{鋭きも鈍きもともにすてがたし,錐(きり)と槌(つち)とにつかいわけるば} と先生はうたいました.

{ 休道他郷多苦辛 (ゆうことをやめよ たきょう くしん おおしと)}

{ 同胞有友自相親 (どうほう ともあり おのずから あいしたしむ)}

 塾生たちの吟ずる(詩をうたう)声か流れてきます.宜園流のしづかなしらべに,ポンポ ポンと竹の鼓. かん宜園をしたう学生たちは,休道(いうことをやめ)て,遠くは仙台 ,秋田からも,江戸,大阪を通りこしてはるばるこの日田に入門するようになりました.

入門をゆるされた学生たちは,どうじに人間としてのはだかにされました.

第一に.:年齢をはがれます.年ゆきも若い者も,一様に一級です.

第二に.:学歴をはがれます.どこでどんな学問をしてきたものも,初めてのものと同じ      ように一級です.

第三に.:地位をはがれます.武士であろうと町人であろうと,または,ぶげん,ひんぼ      うのへだてなく,みんな一級に入れられました.

この時代としてはめずらしい,まったくの平等です.

ひとたび,すっぱだかにされた学生たちは,おのずから

{ 君汲川流 (きみはせんりゅうをくめ)

 我拾薪 (われは たきぎを ひろわん)とあいしたしんでいきました.

広瀬淡窓物語の表紙に戻る。

元に戻る。