** [淡窓 先生]シリーズNO.12 けれども血気さかんな若者たちのこと,時にはけんかもありました. 松浦寿作と坊主堅導は,かねてからにらみあっていましたが,ある日,ついになぐりあ いとなり,坊主は衣をひきさかれ,そのはがいさに,代官所にうったえました. 先生は,教えをきかぬものとして,破門(塾をおいだすこと)してしまいました. ところが,それぞれの学友がしんぱいして,二度も,三度もおわびにきました. 先生は[それほどわびるなら,二人とも仲直りしたというしるしに,手をつないでこい. ]といいました. 学友たちは,それぞれ二人をなだめ,手をつなげとたのみました.け んかどうしは,しかたなく,やっと先生の家の玄関で手をつなぎ,先生の前に頭をさげま した.先生は,だまって,二人とも膳にすえ,ごちそうを食べさせました.おそれいった 松浦と坊主は,それきりけんかをやめました. ある塾生は,夜遊びをおぼえ,夜になると塾をぬけだしました.学友がいくらさとして も,くせがなおりません. それを知った先生は,その塾生を夜になると呼びつけて肩をも ませました.塾生は,腹がたってなりません.グングン力をいれて,いやというほど強く つかみます. けれども先生は,もうよろしいとはいいません.かえってやさしく話かけ ます. そして町もねてしまったころになると,はじめて[ごくろう]といってやめられま した . ある時,風呂に入った先生の背をながしにいった当番の塾生が,先生の肩がはれ 上がっているのにおどろきました.[先生どうなされました.][いや,なあなに]と先 生は,聞きながすばかりです. やがてそのことが,塾生の間にひろがりました.それを聞いたかの塾生は,それっきり ,夜遊びをやめたといいます. [治めて,後,教える]という,先生のかくれた苦心でありました. なかには,苦学する塾生もありました. 京都から入門していた磯崎喜太郎は,もと刀屋 のせがれでありますが,貧しくて学資がつづきません.それで先生は,アルバイトをゆる しました. 喜太郎は,髪をそって,にわか坊主となり,名を欣浄とあらため,学友の坊主 にお経の一ふしをならい,それをもとでに,村村をもらってまわりました.そして一ヶ年 ばかりも,学問をつづけることができました. 先生はこれらの学生を思うにつけ,きびしく倹約をすすめました. おどろいたのは,そのころ宜園をしたってきた女の学生があったことです. 美濃の国からはるばると,山河をこえて入門をねがう二人の女.その名は知白に知参です .ともに禅宗の尼さんでありました. 先生はふと[柔和なおつむになって]といった妹のことを思いながら,いじらしい尼さ ん姉妹に入門をゆるしました. そして,[そうだ,あれから二十年になる.{かつれても}とこの道に志してから.. ..,あの時,長福寺の学寮についてきたのは,たった二人だったがなあ...それも {バカな!}といった倉重先生の一言からだったが,...あの先生も,はやこの世の人 ではなく...]と思いにふむるのでした. [それが今は,学生百八十人.この宜園をしたってくるものは,全国におよんでいるが. .もし倉重先生が生きておいでたら,いやいや,{もの盛んなれば,必ずおとろゆる}と いう.そうだ,つつしまねばならぬ.]と先生はいましめました. と,思うまもなく,骨をひろう夢をみて,正月みそか,秋風庵の伯父さん(月化七六)が なくなり,つづいて九月(二十四日)棺をかつぐの夢とともに,伯母さん(七二)がなく なってしまいました. ご恩ほうじもならぬのに,はや,ながのお別れくやしまれてならず,先生も又病気にな やみはじめました . 塾では金苗見龍(かなえけんりゅう)など三十人が,たちの悪い党をつくり,塾をかきみ だしています. 先生はしばらく,じっとこらえていましたが,ひそかに児玉茂などと相 談して,ついに見龍を破門して,ようやく塾風をとりもどすことができました. ほっとしようとする間もなく,夏ごろから塾生の脚気にかかる者が多く,またたくまに ,三人の塾生が死んでしまいました. そのころ日田では,ふしぎにも脚気にかかるものが多く,ちょうど小ヶ瀬井手のできた年 でもありましたので,世間では,その生水の毒がもぐって,井戸でくみあげられるからだ とさわいでいました. {小ヶ瀬井手は,塩谷代官(しおのやだいかん)の命で,工事いっ さいの指図は,先生の弟九兵衛がした.} 長門萩(山口県)から入門していた秋山勘次郎は,迎えをうけて,むりに故郷に帰ろうと して,かごで伏木をこえると息はたえ. 豊前の坊主冷秋は,しびれ脚気で足がたたず, タンカにのせられて帰る途中,心臓をやられ.備後(岡山県)の渡辺春才は,医学の心え ありながら,自分の薬をのみつつ,息をひきとりました. 広瀬淡窓物語の表紙に戻る。 元に戻る。 |