俳句と漢詩

98/10/02 20:10:25 広報ひた 咸宜園−4(10/1)

          □□□□□ 咸 宜 園 − 4 □□□□□

                  俳句と漢詩

 江戸時代、西国郡代のいた日田は、経済的に豊かな土地柄だったといわれています。
この豊かさが偏狭の地日田に一流の文化を生んだのでしょう。
 「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)という句にちなんで秋風庵と名付けた
淡窓先生の伯父・廣瀬月化、そして父・廣瀬桃秋は、ともに当時、有名な俳人だったと
伝えられています。
 日田に俳諧を伝えた人は中村西国といわれています。芭蕉の蕉風俳諧はその高弟であ
る廣瀬惟然によって元禄8年(1695年)に伝えられました。これによって日田の俳
諧熱は急速に高まり、坂本朱拙や長野野紅らが、天明・寛政時代には月化らが活躍した
のでした。今、咸宜園には月化を偲んで桃秋の建てた句碑がたたずんでいます。
 淡窓先生は10歳の頃、松下西洋に作詩を学び、12歳の頃には高山彦九郎が「大和
には聞くもめずらし珠をつらぬ一日に百の唐歌の声」という歌を詠んで淡窓をほめてい
ます。
 皆さんもよくご存知の「いうことを休めよ他郷苦辛多しと 同袍友有り自ら相親しむ
柴扉暁に出づれば霜雪の如し 君は川流を汲め我は薪を拾わん」というのは、淡窓先生
の代表作です。この漢詩は、「桂林荘雑詠・諸生に示す」といわれるように咸宜園の前
の桂林園時代に作られたものです。
 この「休道の詩」は、現在の中学教科書に中国の大家・李白や杜甫の漢詩が並んでい
ますが、日本人の作った漢詩の代表として、ただ一つ、この「休道の詩」が掲載されて
います。いかにすばらしい詩かということがわかります。
  咸宜園には、この詩碑が大正8年に建てられています。また、淡窓先生の漢詩のい
くつかは11月1日の第2回淡窓祭において秋風庵で吟じられることになっています。

          未世とは 何でいふたぞ はつざくら
                          月 化

                          文 咸宜園解説者 後藤 孝

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