淡窓の立志

99/02/01 13:45:03 広報ひた 咸宜園−8(2/1)

          □□□□□ 咸 宜 園 −8 □□□□□

         <><><><> 淡窓の立志 <><><><>

 人生においては、多くの出会いがある。それによって、その人の人生観が変わり、そ
人の生涯の運命を決定づけることもある。その出会いを生かしうる人は、人生の成功者
といえるだろう。

              ◆淡窓と倉重湊との出会い

 淡窓は、23歳になっても身の立て方が決まらなかった。そして、辛く苦しい思いを
していたころ、以前に淡窓の病気を治した倉重湊が肥後から日田へ帰ってきた。
 そこで淡窓は倉重に今の悩みの心境を長文の手紙に書き、どうすべきかと教えを請う
た。
 「私(淡窓)は数年この方、病がちで病床にある。持病だけでなく心の中に深く思い
悩むことがある。私は幼時から読書一筋で、身を立てるには儒学のほかには何もない。
でも儒を以て身を立てることは多病でできません。また、この地では、先例もなく成り
立たない。他の職は無理。進退きわまっているので良策を授けてください」
 このように書き送り返事を待ったが、倉重からは返事がなかった。待ち切れずに淡窓
は倉重を訪ね、手紙を読んだかと問うた。倉重は懐から手紙を取り出すと、地面に投げ
捨て冷笑して言った。
 「くどくど泣き言を書きおってあなたの身の事はすでに天が定めている。ただ一つし
かない儒学を業とするほかに、何を事とせんか。儒学者になって、生活に窮すれば飢え
て死ねばよいではないか。今日から改めて、門人を教えることを仕事とせよ。」
 倉重の熱情あふれた忠言は、淡窓の心にしみ、目が覚めた思いで非を悔い改め子弟教
育に専念すると答えた。
 24歳で長福寺の学寮を借りて開塾した。さらに成章舎から桂林園へ、そして咸宜園
の開塾となった。
 「倉重がいなかったら、塾を開き、身を立てることはできなかった」と、後に淡窓は
倉重湊に感謝している。

                     写真・文  咸宜園解説者 後藤  孝

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