** [淡窓先生]シリーズNO.3



 ある秋の日,寅之助さんが,長福寺で[負笈追師不遠千里]と読んでいると ,たんぜんを着た五十ばかりの人が,[読むだけではいかん,わけを話してやろう.] といって,[笈とは,本を入れる入れ物のこと,学問のよい師を求めるためには,その笈 を負うて,千里の道もいとわないということだ.]い教えてくれました.

寅之助さんはびっくりしました.そのころは,読書百ぺんといって,ただくりかえしくり かえし読ませるだけで,けっしてわけは教えませんでした.

 寅之助さんは,急いでかえって,そのことをお父さんにつげました.お父さんは[それ は四極先生にちがいない.]といいました.

                                         寅之助さんは,四極先生の弟子になりました. その四極先生が,寅之助さんを,松下西 洋先生の弟子にせわしました.西洋先生は,まだ若く,久留米の医者で,文学の天才とい われた人でありますが,わけあって,そのころ日田に来ていました.

 寅之助さんは,はじめ西洋先生を,家にとまっていただいて,初めて詩を習いました.

四極先生は,又寅之助さんを,広円寺の法蘭上人にもひきあわせました.

法蘭上人は京の都にもきこえた偉い学僧で,西洋先生も,寅之助さんとともに,弟子にな りました.

 こうして寅之助さんは,西洋先生のもとで学び,四極先生にも通い,おりには,法蘭上 人にも教えをうけました.

 寅之助さんは十二になりました. これまでに,ハシカにかかって命びろいしたり,カ サがうつって六十日も苦しんだり,ひ弱な子供でありましたが,いつの間にか,法蘭上人 はじめ西洋先生,その他すぐれた人たちにまじって,詩を一心に学んでいました.

お父さんと太宰府にまいった時, 往々田間埋碧瓦 年々碑上長青苔 古今不改天山色 南北唯看思水来 とうたいました.寅之助さんが作っていた詩というのは,こんな詩であります.

   その頃の日田には,代官所があったので,役人や,学者や,色々な人が来ましたが,た いがいの人が,寅之助さんを見たがりました.

 中でもおもしろいのは,高山彦九郎がやってきた時のことです.

[頼もう,頼もう.]大きな声,寅之助さんが出てみますと,目の玉のぐりっとした,髭 むじゃの,いかにも勇ましい大きな男.[われこそは,上野国の高山彦九郎,九州を遍歴 (めぐりめぐって)して,この度は,広瀬桃秋どのをたずねてまいった.]というわけで ,寅之助さんのお父さんをたずねて来たのでした.

 彦九郎は,日本全国を歩き回り,ひとかどの人間ならば,どしどしたずねていって,忠 孝の道を説いてまわる人でした. その彦九郎が,寅之助さんを見て,[うむ]とうなり ました.そして寅之助さんが,一日に百に近い詩を作ったのを聞いてびっくりしました.



  大和には 聞くもめずらし 玉をつらね 一日に百の 唐うたの声



と歌を作ってほめました.そしてどこに行っても,寅之助さんのことを, [天下の才子だ]とはやしました.(その歌,今でも広瀬家にあります.)

十三になりました.その頃は,西洋先生のところだけ通っていました.ところが,その春 ,とつぜん西洋先生が,佐伯の殿様にもとめられて,日田を去ってしまうことになりまし た.

 寅之助さんは,三ケ年あまり,この先生について,一日もそばをはなれたことはあ りませんでしたのに. つきぬ名ごりを惜しみながら



西:[さようなら.もう泣いて下さるな.]

寅:[はい]

西:[君は天下に志すべき男ではないか.]

寅:[はい,では先生]

西:[うむ,君も遊びに来なさい.佐伯は学問の盛んなところというからな.]

寅:[はい,行きます.きっと行きます.]と,寅之助さんは,泣いて別れました.

 その夏の初め,寅之助さんは,代官さまにめされました.講義をせよというのです. 寅之助さんは,[孝経]を講じました.

[身体髪膚 受之父母 敢不為き傷  孝始也](シンタイ ハップ コレヲ フボニウ ク アエテ キショウ セザルハ コウノ ハジメナリ.)”この身この命は,親からい ただいたものでありますからおろそかにはされません.こう思う心が,孝行の基本であり ます.”とでも語りましたろうか.

 代官さまは大そうおほめになり,ごほうびを下さいました.

六月,寅之助さんは,前髪を切って元服しました.

秋,お父さんと宇佐八幡に礼まいりして,帰ってみますと,法蘭上人がなくなっていまし た. かたみにもらった硯の水差しをみつめながら,寅之助さんはさびしい思いにくれま した.

 はや,日田には,教えてくれる先生かいなくなったからです.

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