** [淡窓 先生]シリーズ 第2部 [遊 学] NO.4



 十四の春,寅之助さんは,西洋先生をしたって,佐伯に行きました. おともはつれて いましたが,雨にぬれたり,道にまよったり,夜中に農家をおこしたり,なんぎしながら 三十七里の道を,とまり重ねて歩きました.

  あたたかく西洋先生にけかえられ,鶴城の中にとまり,佐伯の殿様は,もと日田の日隈城 を築いた毛利氏であること,学問ずきで,お城にはたくさんの書物があることなど,を聞 きました. そして色々な門人たちとも知合い,詩を作りあったり,海に舟を浮かべて月 をながめたり,楽しい4ケ月でありました.

 これは,寅之助さんにとっては,ゆくゆくは,遠く学問にでかけようとする,けいこで もありました.

 佐伯から帰って間もなく,藤左仲と言う青年に会いました. 博多の亀井塾(学校)の 門人で,医学を学び,なかなかの雄弁家(口のたっしゃな)です.

[そもそも亀井南めい先生は,天下にきこえた大学者,しかも詩においては日本一. その子の昭陽先生は,文においては,父にもまさる天才だ.

 そうしてその塾(学校)たるや,海どう館をはじめ,崇文館あり千秋館あり...] などとまくしたてました.

 寅之助さんは,亀井塾に入門したくてたまらなくなりました.

 お父さんは,かねてから南めい先生のもとに学ばせたいと思っていましたが,ひ弱い寅 之助さんのこと,ひとりで遊学(遠くに出かけ学ぶ)できるかしらと,先ず,明くる年の 夏,藤左仲につけて,博多までようすを見にやりました.

 寅之助さんは,左仲のとりなしで,昭陽先生にお会いすることができました.昭陽先生 は,まだお若いが,温厚(おとなしい,しっかりした)な先生です.

[君が日田の広瀬君か,うわさには聞いていたが.]としげしげと見て,いかにも親しそ うです. 寅之助さんは一言もいいきりませんでしたが,[いい先生だなあ]と,そんけ いの思いでいっぱいになりました.

 こんどは,冬,ひとりで亀井塾まで使い(伯父さんの俳句集をつくるための)にやって きました.二十四里の一人旅です.寅之助さんは日田を立つ時,天満宮さまにたのみまし た.[子供の初めてのひとり旅です.心配ですから,よい道づれをおあたえ下さい.] おかげで追いはぎにもあわず,よいぐわいに次々と道づれができ,ぶじに帰って来ました。

明くれば,寅之助さん十六です.正月,いよいよ亀井塾に入門することになりました.藤 左仲と同道です.



男子 志しを立てて 郷関を出づ 学もしならずんば 死すとも帰らず

天をつくような気で,関(夜明けの)を越えました.

 ところが筑前の国に入るやいなや,[今,亀井塾は他国の者(筑前の国の者の外はみん な)の,入門を禁じられた.]と聞きました.

[そんなはずはない] 

[いや,藩(殿様)の命令で,他国の学生は,皆おい帰された.]ともいいます.

寅野助さんは,がっかりしてしまいました.

[なあに,心配するな,何とかなる.]と言って,左仲は,[どこかに,男気のある人物 がいるはずだ.]と林田村の内山玄斐をたずねました.

[広瀬君を,あなたの養子にしてくれ]と頼みました.事情を聞いた玄斐は,[よし,養 子にしてやろう.]としょうちしてくれました.

[もし,お役人につかまったら]と寅之助さんが心配しますと,

[なあに,その時は,まだ届けおせないだけだといえ.後のことは,わしが引き受けた. ]とはげましてくれました.

それで,まんまと筑前の国の者になりすまし,ぶじに入門することができました.

 初めて南めい先生にお目にかかりました.先生は,いかにも威厳(おそろしいような, つよさ,重み)のある,大きな顔でした.そして実にするどい眼の光でした.

[君は,名前を変えたがよかろう.広瀬寅之助では,日田の者ということを皆知っている . 内山玄斐の養子だから,性は内山,名は,玄斐(げんぴ)の玄をとるがよい.]とい われました. 

それで寅之助さんは,こういうこともあろうかと,左仲とそうだんしてあった,簡という 名をつけて,内山玄簡(うちやまげんかん)と名のりました.

 塾は,朝とても早く,毎朝先生の講義があります.二日おきに,夜の共同研究,五日目 五日目に,詩の会,文の研究があります.

 塾生は,そのころ,帰らずにのこっている者が二十人ばかりでした.

寅之助さんは,これらの先輩に追いつこうと,特に詩を南めい先生に,文を昭陽先生に見 てもらいました.

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