** [淡窓 先生]シリーズ[立志編]NO.6 



  あわれ,十九の元旦です.寅之住むさんは,養生の身の淋しさに,静かに香を焚きました . そぞろにせまる人生の悲哀.この上は,ひそかに善を積んで(良いことをして),天 の助けをいのろうと,



人生よう寿定何因 須識皇天そ善人 (じんせいのようじゅなにによってかさだまる  すべからくしるべしこうてんぜんにんにさいわいするを)と詩をつくりました.

 けれども正月の月を待つ夜(23日)とつぜんおこった腹痛をきっかけに,えたいの知 れぬ大病にかかってしまいました. 秋風庵に寝床をうつし,医者よ,薬よとかいほうし ましたが,吐く吐く,薬も粥も吐いてしまう.腹の中にはなにもない,それでも吐き続け ます.ぞっと寒気がするかと思うと,くわっと熱がです.

医者もつききり,つぎつぎと立会いましたが原因がつかめません.色々に薬も変え,手当 もためしてみましたが,五日おさまったかと思えば又七日悪く,それを繰り返すこと百日 です.

寅之助さんは[腹は背につき,手足は細って,麻がらのよう]だったといいます. お父さんは,代官御用のかたわら,医者や薬の心配,お母さんは,家事のせわやら見舞い 客の応待.その中を一心こめて神仏へのお願いです.

病床には,つききりに,妹アリさんと,二つの時から育てて下さったあの伯母さんが,帯 もとかず,夜の目も寝ずに看護です. 思いは一つ,皆どうにかして,寅之助さんの命を とりとめたい. けれどもまだ,確たる手だては見いだせません.

 その時,肥後の医者,倉重湊(日田の人で,熊本に養子に行った人)が来ました. 目は片目,顎は左にそげて顔はゆがみ,見るからに恐ろしい面です. 念入りな診察に, 皆息をのんでいます.

倉[うむ,重態(病気が重い)だのう]

父[だめでしょうか]

倉[うーむ,道はなきにしもあらずだが]

父[えっ!ございましょうか]

倉[ある.ただし,この倉重に,断じておまかせあるならば.]

倉重ひとりに任せろという.皆の中には,それは危ないという者もありましたが,お父さ んは,[では,何とぞよろしく]と頼みました.

倉[途中,どのようなことがあっても,あわてなさらぬな.]

父[はい,それはもう]

倉[しからば,お引受けいたした,ではさっそく灸をいたそう.] 一同[えっ!灸,この重態に]と人々は驚きました. 

[それがしに任せると,今,申したではないか.]と叱りつけた倉重湊は,灸に薬,つき きりで治療にあたりました.

今までの医者も,ことのなりゆきを見守っています.

[鶏の鳴く時刻に,お粥を食べさせよ]と湊は命じました. 伯母さんと妹アリは,その 通り時刻をたがえず.[寅之助や,さ,お粥をひとすすりしてごらん.]

[お兄さま,ほんの重湯,さ,お口にふくんでごらんなさいな]とすすめます.けれども 寅之助さんは,どうしても食べられません.伯母さんは,[お粥ものどを通らぬのか]と ,襖のかげに泣きくずれました.

 寅之助さんは,それが悲しく,泣いてくれる人のために,むりに一匙たべてみました.

三日たち五日たちました.が吐きません.ああ吐くのが止まった.薬も粥ものどを通りま す.七日たち十日たつうちには,寒気も熱もささなくなりました.いつしか命をとりとめ たのです.

 卯の花におう垣根ごしに,人皆の,安堵の笑顔がみえました. 寅之助さんは,名を, [求馬](もとめ)とあらためました.

 その秋の暮れ,大超寺に,肥後の豪潮律師が見えました.豪潮律師は,都にあって,天 子さまにも道を説かれた,徳の高い僧です.

人々は,その加持(いのり)を受けようと,つめかけました. 信心深いお父さんは,[求馬,おまえは病気持ちだ,加持を受けなさい.]とすすめましたが,求馬さんは, [でも,私には,まだ信じられません]といいます.

ざんねんそうに,お父さんは,[そうか,しかたがない,ではアリ,兄さんに代わ って,受けておあげ][はい]妹アリさんは,素直に信者になりました.

求馬さんは,その後しかたなく,律師に[準堤観音の呪]を習いました.

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