** [淡窓 先生]シリーズNO,7



それから二ヶ年,求馬さんは,[一たび矢に傷ついた鳥が,わずかな弓弦の音にも,驚き おそれるような思いであった.]といいます.

 ところが,とうとう二十一の冬,またもやぞっと寒気がしました.くわっと熱がでます .寝汗,なま汗,それにこんどは,咳がでます.[これは]と恐れた求馬さんは,自分の へやにとじこもったきり,だれもよせつけません.

{なうばさつたなん,さんみゃくさんぼった...]と準堤観音の呪を,となえ続けてい ます.と,春の暮れ,又しても流行の麻疹にかかってしまいました.

とてもはげしく,苦しむこと半月,ようやくおさまって, [ほっと]しようとしますと,こんどは,にわかに小便がとまって,二日一夜.その痛む こと苦しいこと.三つの病気一時に重なって,[こんどは命をとられるのではあるまいか .]と,皆の悲しみ,親たちのなげき.妹アリさんは,みるにしのびず,ついに人しれぬ 大願を立てました.

 ちょうとその時,豪潮律師が四年ぶり,永興寺に見えていました. ひそかに決心した アリさんは,今日も善男善女(信心するひと)とともに,ありがたく加持をうけ,人々に まじって,いざ帰ろうとしますと,[そこの娘まて!むと思いもかけぬ律師の声.

[はい,あのー,私で]とおそるおそる進みますと,[そなたは大願をいだいているな]

[えっ!は,はい,あのー,実は兄求馬の身代りに] [身代り!]

[はい,その後の兄の病みつづき,今は又,命のほどもわかりませねば.]

[うむ,さようであったか...加持の途中,わしの胸に,なにかつき通すものを感じて いたが,うむ..けなげよのう.]

 おそれ入ったアリさんは,帰るとすぐ,[お兄さま,どう,おかげんは][うむ,どう やら痛みだけはのう][そう,よかったわねえ,今日はね,とてもありがたいお加持を受 けましたのよ.]と律師の霊感(ふしぎなたましい)にふれたことを話ました.

 求馬さんは,苦しい息のしたから,[そ,そんな願いを,や,やめてくれ]

[でも,私,お兄さまに代わってお加持を受けて来ましたでしょう.代わった者は,命ま でも代わるのがほんとうだときずきましたの.]

[そう一途にならなくとも,...それにこの兄も,これで死ぬとは,決まってもいなか ったろうし][今さらそんなことを...でも,私,その時は尼さんになりますわ]

[ば,ばかな,早く仏にたのんで,そ,その願いだけはとりさげてくれ.]

  [ねえ,お母さま,おゆるしになって.お兄さまもあれを境に快くなったではございま せんか.][それはもうそれにちがいはありませんが,みすみすそなたを尼さんに... .ねえ,み仏には,あらためて,おわび申しましょう.]

[それでは,誓いが立ちませぬ][では,どうあっても][はい][それではこの母が, そなたに代わりましょう][そんな,けじめのないことを][いいえ,み仏さまのお慈悲 には][いいえ,お母さま,それは甘えですわ,道はきびしいものと聞きました.]

「 ねえ,お母さま,おゆるしになって]とアリさんは,お母さんの膝に泣きふしました.

[しかしなあアリ,志しはかたくとも,人の心は変わりやすい.後で人のもの笑いになっ てはのう.][まあ,お父さま,私そのような者にみえまして][あ,いや,世の中には というのだ][そんなら,ひと思いにおゆるしになって,ねえ,お父さま.]

[いえいえ,ふびんな,どうしてそのようなことがゆるされましょう.博多やの嬢さんは ,白菊のようじゃといわれるたびに,そなたの花嫁姿をまっていましたのじゃ.]

[いいえ,お祖母さま,私はふびんではありません.ほんとうは,私,尼さんがすきです わ.あの柔和なおつむになって,静かに香を焚くことが,ですからもう何もおっしゃらな いで.][まあ,この娘は]と,お祖母さんは,アリさんをだきしめるのでした.

 この事を知った豪潮律師は,アリさんをあわれみ,[わしを呼ぶ者の声にひかされて] と,見舞ってくれました.

律: [いかがでござろう.宮中に仕えさせられては.

] 一同:[えっ!宮仕え]

律: [されば,それがし,九重の奥(宮中のこと)にまいくしころ,仏縁(信心)あつ き風早局から,{同じ道に志す,よき友がほしい}と,しきりに頼まれてござった.幸い アリどのを,風早局にさしあげられてはいかが.]

一同:[まあ]

生涯(死ぬまで)仏を念じ,しかも尼にはならぬ宮仕えであります.皆よろこんで,律師 にたのみました.

けれども求馬さんは,[これ,だれの罪]と,ひとり泣きました.

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